惜 別 2

 

ここに載せた追悼文は、幼なじみで一番仲の良かったCHIKAちゃんと、小学校時代、5,6年生の時の塾(四谷大塚)の友人が私達夫婦のために書いてくれた信介の思い出です。「惜別1」に載せた彼らのメッセージは、信介の棺を前にして、手帳を破って書いてくれ、棺に入れて欲しいと手渡され、信介と共に旅立ちました。「惜別2」は改めて、皆さんが他の友人にも呼びかけて、書いてくれた思い出です。私達の知らない信介を知ることができ、もう私達には思い出しか残っておりませんから、嬉しくて、有り難くて、読む度に涙が止まりません。「信介は幸せな奴だった。こんなにも沢山の友人がいて」と改めて思っております。追悼文を寄せてくれた友人の皆さん、勝手にこのホームページに載せることをお許し下さい。信介がどんな小学生だったのかを語るには、皆さんの追悼文が最もふさわしいと思いましたので。

また、麻布学園では追悼文集を出してくれることになっております。いくつか紹介できたらと思っております。

信介の麻雀仲間でもあった私の高校時代の友人が、信介とその友人を通して、17才の高校生が何を考え、何を求め、何に悩んでいるのか等を取材し、一冊の本にまとめて、出版してくれることになっております。それが私達遺族の心の一つの区切りになればと思っております。

父 富久邦彦

 

 

今日、新聞ではじめてホームページがあることをしったのでメールをおくります。

私は幼稚園から小学校にかけてBSCで信ちゃんとは接点がありました。ちかが怒るので(笑)あまり仲良くしなかったけれど小さな頃から背も高くすることもダイナミックで目立つので私の印象に強く残っています。惜別にはBSCのことも書いてあって少し涙がでました。私は小さかったので大きな信ちゃんはスーパーマンのように本気で思っていたので大人になったらきっと有名になってTVとかに出ちゃうような人になるんだと確信していました。それは才能だけでなく日々努力のできる人だったから、負けず嫌いな私に素直にすごいなと思わせました。そんな人の未来を奪い去った 何か を私は憎く思わずにいられません。まわりの人に信ちゃんが与えたものは大きなものだったと思います。若くして終わってしまったけど信ちゃんの人生は誰に比べても劣らないくらい素敵なものだったと思います。だってこんなに悲しむ人がたくさんいるのだから。私は信ちゃんから教えられた努力することを忘れずに日々を過ごします。

富久信介君のご冥福をお祈りすると共にご両親の幸せをお祈りします。それでは。

 

信ちゃんへ

あの日の事と信ちゃんのことは、チカが生きてる限り一日だって忘れる日はないと思う。もう3ヶ月も経つけど、写真を見てると涙が止まらなくなることもまだあるよ。あの日、学校から帰ってきてすぐ近所に住んでいる子のお母さんに知らされて初めて”信ちゃんの死”を知った。それを聞いて家のドアを閉めてからもしばらくは、涙は止まらなかったけど、悲しいとか辛いとかそんな感情は出てこなかったよ。あまりに突然のその知らせをニュースをいくら見ても信じられなかったから。だって、そこに映ってたのはチカのよく知っているあの信ちゃんだったんだもん。写真は間違いなく信ちゃんだったけど、チカの中で信ちゃんは「死」ってものから一番遠くにいたし、冗談でも死んじゃったらどうしようとか考えたこともなかったから、「あの信ちゃんが死ぬはずない、何かの間違いだ」って自分にずっと言い聞かせて、最後まで誰かが「人違いだった、信ちゃんは生きてるよ」って言ってくれるのを待ってた。でも2000年3月8日9時01分で信ちゃんの時間は止まったまま、二度と動くことはなかった。それが現実だった。それを改めて知った時の気持ちは言葉じゃ表現できないよ。次の日、チカ、信ちゃんに会いに行ったよね、5年ぶりの再会だったのにチカの前にいた信ちゃんはもう動くことも喋ることも笑うことも怒ることもなかった。別人だったよ。

「こんなはずじゃなかたのに」って何度も思った。泣くことと、後悔しかできなかったよ。それからあっという間にお通夜、告別式と終わってしまったけど、チカの心の中は何も整理できてないままで、信ちゃんでいっぱいだった。毎日とにかく何を見ても、してても、信ちゃんのことばかり思い出しちゃって涙がボロボロ出てきて止らない、小学生が学校から帰ってるのとか、もっと小さい子が遊んでるのを見て泣いてた。信ちゃんとの思い出って、小さい頃のだからどうしてもその子に重ねて自分を見ちゃってたんだね。正直、信ちゃんがこんなに大きな存在だと思ってなかったよ。泣きながらだけどホントに色々なことを思い出した。

長い付き合いだもんね、チカが今の家に引っ越して来たのが1歳半、それから実際遊んでたのは小4までだけどそれでも8年ぐらい?チカの人生の約半分だよ。思い出が沢山あっても全然不思議じゃないよね。家が目の前だったからいつも日が暮れるまで遊んでたね。幼稚園に入って年少の時はクラスが一緒だったんだよ、さくら組、覚えてる?年長は違うクラスになっちゃったけど。バスでは、うちの辺りが一番遠くて乗ってる時間が長かったからいつもナゾナゾの本を持って問題を出し合ったりしてたね。七夕には浴衣も着たね、遊戯発表会っていうのもあったし、鼓笛発表会とかもあったね。遠足でいろんな所に行ったり。夏休みは庭でビニールプールで遊んだり、花火したり。夏が終わると信ちゃんいつも真っ黒に日焼けしてて、プールの時間にやってた「黒んぼ大会」っていうので優勝してたよね。この頃を含めた小さい頃の写真はチカの宝物だよ。家が火事になったって、これだけは持って逃げるからね。写真ってものがこの世にあって良かったと改めて思ったよ。他にも、自転車に乗る練習も家の前でやったよね、信ちゃんの方が補助輪早く外しちゃったからってチカは乗れないのにマネして外して一生懸命練習したんだよ。ロ−ラースケートもやったね、すぐに信ちゃんの靴のサイズが合わなくなっちゃって、飽きて、いつのまにか下駄箱で埃かぶってたけど。ファミコンもそうだよね、いつも信ちゃんの家に行くと信ちゃんファミコンばっかりやってて、チカもやってみたけど全然クリアできなくて結局信ちゃんがどんどんクリアしていくのを見てる方が自分がやるより多かった気がする。見てる方が楽しかったしね。家にあったファミコンのカセット1つだけだったもん。ファミコンはあんまり向いてなかったみたい。他にも何して遊ぶか話してるうちに話が盛り上がっちゃって遊ばずにそのままバイバイしたなんて日もあったね。冬に雪が降った後、かまくら作ったこと、雪合戦したこと、ディズニーランドに行った事、公文にも、たまに一緒に通ってたもんね。終わってから隣にある公園で遊んだこともあったね。公文ってチカは辛い思い出が多いんだけど、信ちゃんはそうでもなかったみたいね・・・。この辺りからもう違ったのかな??BSCも楽しかったよね。学校が終わってから幼稚園行って、始まる時間までは外で遊んで。

信ちゃんといえばスポーツだけど、BSCの影響が強いんじゃないかな?何でもやったもんね。マット、跳び箱、鉄棒、縄跳び、持久走、水泳、・・・やっぱり全部上手かったけどね(笑)。長い休みにはスキーとか、スケートとかキャンプもあって行ったよね。BSCの思い出は多いね。小学校は小3、小4とは同じクラスだったよね。チカは小学校で、この2年間が一番楽しかったよ。同じクラスになって少しして、「信ちゃん」って呼ばれるのは恥ずかしいってことになって呼び方を変えたんだったね。”トミ”って。すごい違和感があったけど、しばらく呼んでたら慣れたよ。今は「信ちゃん」にまた戻っちゃったけど。何度か席が隣になったこともあったよね。信ちゃんてホントに色んな事知ってて、話すこと話すことハンパなく面白い。聞いてて飽きないんだよね。上手く言えないんだけど、信ちゃんにはみんなが言ってるように、他の人には無いそういう才能っていうか、天性のものがあったと思うよ。ホントに。信ちゃんの回りにはいつも沢山の友達がいたよね、それは信ちゃんにみんなどこかしら引かれる部分があって自然と集まってきてたんだと思うよ。それに信ちゃん、友情にもすごく厚かったもんね。そこはチカも見習いたいトコロだよ。体育の時間も楽しかった。同じチームになれればほとんど優勝は見えてて負けることなんてめったにない、その代わり絶対に敵にまわしちゃいけない相手だった。恐い恐い。まともになんて戦えないもん。くだらないことだけど通知表の評価がどっちのほうがいいか競争したりとか、他にバカなこともいっぱいしたよね、ホントに楽しいあっという間の2年間だった。信ちゃんがいたからこの2年があるんだとチカは思ってるよ。

でも、こんなに仲が良かったのにチカが小3の終わりに塾に行くためにBSCも公文もやめてから、小4までは同じ様に過ぎていったけど、小5のクラス変えで別になってからは突然全く喋らなくなちゃったんだよね。共通点がなくなっちゃったのが大きかったかな?塾が別で変なライバル意識とかがでてきたからかな?理由は未だによく分からないけど、結局そんな状態のまま卒業しちゃって、それからは中学も別々だったし、家が目の前でも会うことはもちろん、見かけることもほとんどなかった。たまに信ちゃんの話を少し聞くことがあるぐらいだった。引っ越してからはもっと疎遠になっちゃって偶然会うことも一度もなかったね。引っ越す時に最後に挨拶に行った時にチラっと会ったよね、あれがチカの見た最後の信ちゃんだよ。やっぱり5年会ってないってことになるよね、5年って長いね、その間の信ちゃんを知らないけれど、みんなの寄せ書きとか見て変わってないなと思うこともいっぱいあったよ。信ちゃんは信ちゃんだよね。なんか安心した。全くの別人になってたらどうしよう・・・って実はちょっと心配だったりしたんだ。もう会えないのが残念だよ。でも、あの世で会うのを楽しみにしてるね。だからあんまり焦って先に生まれ変わっちゃわないでね。会えない気がする・・・心配だよ・・・。ちゃんと待っててね。

チカ、信ちゃんに出会えて本当によかった。もし、チカの幼なじみが別の誰かだったら今のチカはきっといないよ、違う人間になってたと思う。今のチカがいるのは信ちゃんのおかげなんだよ。大切なこともいっぱい教えてもらったよ。信ちゃんにはいくらお礼を言っても足りないね。お礼とかそういう次元じゃないんだけど。信ちゃんはチカの中ですごくトクベツな存在として昔から、もちろん今も、いるよ。なんか、「信ちゃんの場所」っていうのがあるの。これから何度もチカの中のこの信ちゃんに助けてもらうこともあると思う。信ちゃんがいると思うとかなり心強いから頑張れそうだよ。チカの人生がいったいあとどれだけあるのか分からないけど、精一杯生きなきゃって思う。そうしなきゃ信ちゃんに会えないよね。あれからしばらく、人間いつ突然死ぬかなんて分からないんだから一生懸命生きたって無駄なんだって思ってて、そんな風に生きるのが恐かった。でもそれって全然違うよね。無駄になることなんて一つもないよね。そんなことが分かるのにこんなに時間がかかっちゃったけど、こういうことも考えられるようになったよ。少しづつ前に進めてるよね?今思えばこの3ヶ月の間に色々なことがあったけど、チカなりに頑張って来たよ。3ヶ月前のチカと、今のチカ、大分違うと思うんだ。流した涙分、人間としても成長していけると思う。あんなに辛いこと、もう二度と無いと思う。これからはもう泣かないなんて約束はできないけど、もし泣いててもただ泣いているだけじゃないから許してね。信ちゃんはチカの中にいるんだから「さよなら」は必要ないよね。次会う時まであの世で待っててね、みんなを見守ってて。

それじゃあ、またね。

2000年6月7日

 

富久へ

「日比谷線で大事故が起こっているから、気を付けて帰るように。」...これがあなたとの永遠の別れになってしまったあの事故について私が最初に得た情報でした。

人身事故の多い横須賀・中央線を利用している私は、きっとまた誰か飛び込んだんだな、ぐらいに考えて、あまり気にしませんでした。普段通りに帰宅し、何気なくTVをつけたら、どの局もあのニュースをやっていて、ああ相当大きいんだな、と思って見ていたら...富久君。あなたの名前が、白抜きで大きく映っていました。

こんな形で再会したくなかったよ。

四谷でも一緒だったけど、BSCでも一緒だったよね。空中前回りとか、巴がいつまでたっても出来ない私の横で、見せつけるように何度もやっていた富久君。背が高いから、やっぱり、跳び箱がすごく上手くって、新沼先生に「信介、信介」って、可愛がられてたね。新沼先生も同じ名前だったから、特に。でも倒立は私の方が上手かった。何度やっても負けるから、悔しそうに1人で練習してたのが負けず嫌いの富久らしかったよ。私も富久も背高くて同じぐらいだったから、ペア組まされて、何かいろいろやったね。...やっぱ、何やっても富久の方が上手だったから、悔しかったなあ。いまだに空中前回りなんてできないよ。

二重跳びのコツを教えてくれたり。塾とはまた違った顔の富久がいた。いしご先生に、「体がカタイ!」って云われて柔軟の特訓やらされてましたねえ。私は新沼先生にやられてたけど(笑)。BSCのメンバーは年がバラバラだったけど、何か仲良かったね。誰かのお母さんとか先生とかが帰りにお菓子くれたり。

小枝のアイス背中に入れられて「冷たい!!」って叫びながら坂をかけおりてったのも、今では懐かしい思い出です。

Yと仲良かったんだっけ? 男のコはちっちゃいコしかいなくって淋しそうだった。...あれ?ほとんど年下だったっけ?BSCのメンバーで覚えているのって、富久とYとIさんだけだなあ。そもそも同い年が4人しかいなかったのかな?だけど、その4人の中で富久は一番運動神経がよかった。あの頃からスポーツ好きだったんだね。そういえば。

ボール使うの好きだったね。強く投げすぎて、ボールがフェンス越えてっちゃってさ。あわてて誰か取りに行かされて。運悪く道路側に落ちると、急坂なもんだから、どんどん転がっていっちゃって、ボールはよく跳ねられてた。弾まなくなるんだよね、事故に遭うと(笑)。

暗くなってからは、あのいやに明るいライト付けて、ドッジボールなどをやって。2階の廊下にあった不思議なカタチのバク転練習用クッションの上で寝そべってたら、誰かが転がしちゃったもんで、頭から落っこっててたねえ。「誰にも云うな」って云われても、こんな面白いコト云わないなんて勿体ない。その日中に全員に知れわたっちゃって、さんざんバカにされて怒ってたのが昨日のことのようなのに。

もう会えないんだね。もちろん中学入ってからは何の接点もなかったけど、やっぱり心のどこかに信介がいたんだよね。すごく淋しいよ。悲しいというよりは。

信介のことさ、Yの次に好きだったし。今だから云うけど。...富久の思い出は、今まで一緒に過ごしてきたみんなの中にしっかりあるから。それぞれの、その人なりの富久がいる。みんなの中にずっと信介は生き続けてるから、信介もみんなと一緒に生きて、ずっとみんなを見守っていて欲しい。

信介のおかげで、何か、5年前のあの時に忘れてきたいろんなものに巡り会えて嬉しかった。5年前の時の流れの中には、私がいちばん好きだった、でもそれをずっと忘れてたモノや人がいて、現在の自分に欠けていたものが思い出せて...。ありがとう、信介。信介っていう、少なくとも私にとっては大切な1ピースを失ったけど、新しい何ピースかを残していってくれた。その新しいピースが、一体どんなフレーズで、どんな曲が出来ていくのかはまだ理解らないけど、きっと大切なものになるって思ってます。

...だからね、さよならなんて云わないよ。ご冥福もお祈りしない。だって信介、生きているから。確実に。

ありがとう。それじゃ、いつかきっと会おうね!信介。

 

富久くんへ

前略。初めまして。富久と話したことあったかなぁ・・・。あんまり覚えてないけど、でも、初めての目崎先生の男女混合補習の時、私の斜め後ろに座ってたよね。覚えてるかなぁ?富久って、すごく背が高くてちょっぴり無口で少しこわいイメージもあったけど何より、頭がいいんだなぁって思ってた。結局、麻布に入学したんだもん。やっぱりすごいんだね。私にとって特別コースは、一緒に受験勉強を頑張った、宝物です。だから激励会の時に撮った写真も大事にとってあって、富久はまん中に座ってた。私ね、辛いとき、たまにあの頃にもどりたいなぁ、とか思ってたんだぁ...。でもね、これからはなんだかそう思わなくても頑張れそうな気がするの。頑張らなくちゃって思うの。だって富久が教えてくれた、残してくれた、大切なことだから。

皮肉なことだけど、富久のこと、ニュースでたくさん知った。ボクシングのことや東大行きたかったこと。すごいね、一人でクラブなんて、私にはできない。富久はさ、きっとやるべきことをやった...っていうか神様が与えてくれた課題を全部やったんだよ。私には何ができるのかな。ちょっと情けないです。私、富久のやりたかったこと代わりにやってあげたいけどやっぱり富久じゃなきゃできないことばっかりで...。だって、富久は誰にも代われないじゃん。 ...ねぇ、富久。やっぱり早すぎだよね。なんで神様はやりたいこと、最後までやらせてくれなかったんだろう。でもね、私は富久に教えられたことが多いみたい。さっきも書いたけどさ。ありがと...。それに、特別コースのあのメンバーの内、一人でもいなかったら私は今、この場所にいなかったと思う。本当にありがと。ありがとう。かしこ。

 

富久くんへ

富久くん、多分私のことなんて、覚えていないだろうけど、小学校の時、四谷でいっしょに(?)勉強していたHです。私は、男特とも全然仲良くなかったし、頭も良くなかったから、影もうすかったと思うけど、1度だけ隣りの席になったことがあるんだよ。

目崎先生の授業で、たった1枚のプリントだったけど。私は今でもその問題を覚えているよ。てんびんの重さの問題と、水溶液の濃度の問題だったよね。私が1問しか解き終わってないのに、富久くんはもう解き終わってて、「早くしろよ」って怒られた。私はもう恐くて恐くて。それで1発で当ってて、1番に帰れたんだよね。嬉しかったよ。もっといっぱいプリントがある時に隣りになれれば良かったのになぁ。富久くんは大きいし、頭良いし、とにかくみんなが一目置いてたから、すごい緊張しちゃったよ。多分、あの年の女子特・男特の中で、富久くんのことを覚えてない子なんて居ないんだろうね。だから、今回のことを聞いて、すごくショックだったよ。なんか、新聞とかに富久くんが中学に入ってからやってきたこととかが書かれてあって、私は、「自分は今まで何をしてきたんだろ?」って思ったよ。恥ずかしかった。小学校の時の富久くんしか知らない私は、すごく驚いたよ。そして、すごく悔しかった。これからの日本を、変えてくれるかもしれなかったのにね。きっと今、すごく無念だと思う。死んでも死にきれないと思う。

私には、何もできないのがもどかしいよ。私は「富久くんの死から...を学んだ」とか、軽々しく言えないよ。でも、これから、真面目に生きていこうと思った。富久くんが、この腐った日本の社会を変えていこうと思っていたように、私もこの日本の法律制度を変えていきたいと思っているから。

今だに信じられないけど、あの時の富久くんは、今天国でこの手紙を読んでいるんだよね。確かに、富久くんの肉体は、死んでしまったけど、魂はみんなの中に残ってるし、そして、私は富久くんが新たなる野望を抱いて生まれ変わってくることを心待ちにしているよ。また、ゼロからの始まりだけど、富久くんならできるよ。安らかに成仏して、そしてパワーアップしてこの世に戻ってきて下さい。みんな待ってます。

 

富久へ

こんにちは。女子特のHだよ。覚えてる?

富久はすんごい背が高くて、しかも頭がよかったし・・・で目立ってたから、よく知ってるけどね。

あの時も今も、富久を含めてみんなががんばってるんだっていう、なんか連体感みたいなの?があったからがんばれたんだよ。どうもありがとう。

これから、私は精一杯生きようと思うよ。命の大切さをホントにわかった気がするよ。

それじゃあ。富久もがんばって。私もがんばるよ。

2000.4.12 

 

富久信介さん

よく知っていたという訳ではありませんが、なぜか記憶に残っている事があります。

確か、理科の補習か何かの時の事です。その補習の形態が、プリントを解き、それを先生に見せて、OKだと次に進めるというものでした。出入りも自由で、少し遅れて入ってきて、先生と話しているところが聞こえました。「(スポーツの)試合だった。」というようなことを言っていたと思います。私はその時、好きだった習い事も全てやめて、勉強だけやっていたのに、ほとんど最下位でした。その会話を聞いた時、「勉強もすごくできて、その上スポーツもやっているのか...。」と感心するのと同時に、自分がとても情けないような気持ちになったことを覚えています。皆、自分と同じように余裕なくやっているのだろうと思っていたので...。その後にも、先生が「とても良い文章を書く子がいる。」と言っていたり、何度も名前を耳にしていました。「何でもそろっていて、すごい人っているものだな。」と思っていました。能力の違いかな...と少し悔しくも思いました。

短い間ではありましたが、同じ教室で勉強でき、そんな人の存在を知ることができた事はとても良かったです。私の事は憶えていないとは思いますが、私は憶えています。

亡くなったと聞いた時、本当にもったいないと思いました。わけの分からない気分でした。

夢もたくさんあっただろうと思います。残念ではありますが、目標に向かって頑張りつつも「今」をきっと楽しんで過ごせていたのだろうと想像します。ただ目標だけに達しようとするよりもそういう事の方が大事なのでしょうね。

 

富久君へ

私は小学校の時、四谷大塚で富久君と同じクラスでした。普段通っていたわけではないので、話した事はなかったけれど、あなたの事は鮮明に覚えております。それだけ富久君は黙っていても他の人の目を引きつける魅力を持った人でした。いつ見かけても、大勢の友達と一緒で、背が高くて、とても行動力がありそう...そんな印象でした。

中学受験を終えた後は全くつながりがなくなってしまって、見かけることもなくなってしまいましたが、こんな形であなたの事を知らなくてはならない事が本当に悲しいです。ニュースを聞いた時は涙が止まりませんでした。これから富久君が自分の周囲、そして社会に与える事ができたであろう可能性を考えると、本当に「どうして富久君が」という悔しさでいっぱいです。

私達と同様、高校に通い、大学を目指していたはずのあなたが。

富久君が今まで私を含め、周りの人に与えてきた大きな財産をそれぞれが大切に心にとどめておくのを見守っていて下さい。

そして、いつまでも皆の心の中で生き続けて下さい。

 

富久へ

富久、久し振りだな。多分、俺がお前に手紙を書くのは、これが初めてのことだと思う。いつかまた、必ず会える、そう思っているうちに、もう二度と会えなくなっちまうなんて全く思わなかった。だから、あの日のTVから流れてくるお前の名前を聞いた時、俺は、愕然とした。そして、気付いたら、TVのアナウンサーに向かって、「嘘だろ、間違いだろ」って叫んでいる俺がいた。

本当にショックだった。

あの日から、俺は、お前との思い出をいっぱい思い出した。やっぱり、富久といえば、一番最初に思い出すのがサッカーだ。お前はすごくサッカーがうまくて、いつもサッカーのことを話してたような気がする。スポーツが得意じゃなくて、野球観戦しか知らなかった俺がサッカーをするのが本当に好きになったのは、お前と出会ってからだった。俺達は、どこに行っても、時間と場所さえあればサッカーをやってた。みんなで筑駒の文化祭に行った時も、栄光の文化祭に行った時も、国会とかの見学に行った時までサッカーをした思い出がある。そんな時、いつも中心になるのはお前だった。ドリブルもシュートもすごいうまくて、俺達とはレベルが違っていて、いつも俺達を驚かせてくれた。人数が足りない時は、みんなが「富久は2人分だから」とか言っても、お前は笑って文句を言いながら、さらにその上を行くような活躍をしていた。お前は常々、「俺はサッカーのプロ選手になる」って言ってたよな。他の人がスポーツ選手になる、とか言っているのを聞くと、無理に決まっている、とか思って全く信じなかったけど、富久が言うと、本当にしそうな気がした。だから、小学校の頃、お前がユースの試験に落ちたって言ってた時、言葉も見当たらず、何とも言えない空虚感を覚えたことを覚えている。

サッカー以外にも富久の思い出は出会いの時から他の人とは違った。何しろインパクトが強かった。大きな体に大人びた顔、体の小さい俺にとってはなおさら衝撃的だった。第一印象は恐そうな人というものだった。しかし、一度付き合い出すと、本当にいい奴で、どんなことにおいても本当に頼れる存在だった。俺が、他の人と喧嘩した時は、いつも止めに入ってくれたよな。俺なんかより、ずっとしっかりしていて、カッとなりやすい俺はお前に助けられたことが何度もあった。

そんなお前にも、数多くの笑い話があるよな。よく覚えているのは、お前がシャーペンの芯を爪に挟んで、コンセントに差し込み、軽い感電をして、「これ、スッゲー痛いんだよ」とか笑いながら喋ってたっけ。お前がそれを教室のコンセントでやりだしたら、みんなで真似して、笑って楽しんだっけ。あと、お前は「缶ジュースを5秒で飲める」とか言って、炭酸の入ったコーラとかであっても、本当に5秒位で飲み干しちまったりしてた。何をやるにもしても、本当にワイルドで面白かった。あと、俺が本当に笑ったのは、四谷の上大岡校舎の壁を壊したっていう話を聞いた時だった。新横浜校舎の壁を蹴りながら、「ここは頑丈だな、蹴っても壊れねーよ」とか言ってたことを聞いて、吹き出した事があった。お前が言うには、上大岡は思いっ切り蹴ったり、全速力で激突すると、簡単に壊れて、新横ではそれが出来ないんだったっけ...。

そういえば、お前と相手をお互いに誉め合ったことがないような気がする。二人共、他人を誉めるのは上手くない人だから、いつも悪口を言い合っていたっけ。でも、それでも互いに分かり合える雰囲気があったような気がする。いつでも笑いながら、文句さえ言い合っていればよかった。あんな充実した日々はもう来ないのかもしれないと思うほど本当に楽しい日々だった。そして、富久はいつでも笑顔でいた。

だから、俺はお前がもう会えない存在になってしまったときから、絶対に泣かない、と心に誓った。本当に泣きたいのは、俺じゃなくてお前自身のはずだから。それに、もしお前に泣いてる所を見られたら、絶対お前に「何泣いてんだ、情けねえな」などと言って、バカにして来るだろう。お前は俺が泣いているよりも笑っていることを望んでいるんじゃないかな、そう思うから、お前がいつも笑っていたから、俺も、いつまでも笑っていたい。お前には笑顔を見せ続けていたい。次にお前と会えるときまでずっと...。

お前の生き方は、決して器用ではなかったと思う。でも、多少武骨ではあったが、純粋で、真っ直ぐで、力強くて、何に対しても真剣だったように思う。何をやらせても、何でもこなした。でもそれは、器用だったというより、常に前向きだったからだったと思う。そんな富久の生き方は、そういう力強い生き方が出来ない俺にとっては、とても格好よく、羨ましかった。そして、憧れていた。

富久がいなくなってしまった。でも、俺には富久の生き方を継ぐことは出来ないし、誰にも出来ないと思う。でも、だからこそ、俺は俺自身の生き方を貫いて行きたいと思う。だから、富久にはいつまでも見守っていて欲しい。

俺はいつまでもお前を忘れない。だから、俺の心の中で生き続けてくれ。

 

富久へ

僕が富久と初めて会ったのは、小学校五年の四谷大塚の算数のあった、ある日だった。第一印象は、僕だけでなく、周りの皆もそうだったと思うが、「うわ、デカ。なんだコイツ」だった。目線が合った直後、富久と少し会話を交わした後、僕たちはすぐに友達になったんだよな。僕は、富久の話が大好きだった。ちょっとマセていた所もあったけど、様々な面で大人びた考え方をしていたり、逆に、とんでもなく子供っぽい所もあったりと、全てが、僕が今まで付き合ったことのないタイプで、話をしたり、一緒に遊んだりするうちに、どんどんと君の魅力に引き寄せられていったよ。やっぱり凄かったのは、何と云っても、君の身体能力の高さだった。僕は、小六の頃は小学校ではリレーの選手で、足には結構自信があり、ある日、富久と一緒に走って競争した。いつも、富久に足の速さの自慢話を聞いていたが、あまりに凄かったので、ちょっと大げさ過ぎないかと内心思っていた僕だったが、競争した後、僕の疑いは一瞬にして晴れたのだ。走れば走るほど、どんどん置き去りにされ、富久の背中が風と同化しているような錯覚に陥るほど、スッゲー速かったよ、富久。

僕は一応、四谷へ勉強するために行くことになっていたが、富久と仲良くなってからは、富久と遊ぶために四谷へ行くような感じだった。授業の時も、早く終わって帰りに「〜して遊びたいな」とか、けっこう思ってたよ。でも、国語の授業は違ったな。なぜなら、国語はゲーム感覚で、判別対抗で、一緒に楽しくやれたから。あ、そうそう、よくこういうことがあったな。国語の問題で、富久の答えは間違っていると周りが言っても、「いや、絶対合ってる。俺が保証する。俺を信じろ」と強く主張することがしばしばあった。ちなみに、僕の記憶が正しければ、十数回こういうことがあって、正解したのは2回ぐらい。けっこう皆にひんしゅくを買っていた。でも、「ワリィ、ワリィ」とか言って、あんまり気にぜず、うまく流していたよな。あの自信はどこから来たのだろうか?

僕が今現在、最も愛するスポーツ、”サッカー”。この楽しさを教えてくれたのも富久だったんだぞ。ある日、一生懸命サッカーに励んでいると言っていた富久の楽しい顔を見て、自分もやってみようとした。実際やってみると、富久の言ったとおり、面白く、ハマってしまった。その後、2,3回一緒に遊んだ時、富久とサッカ−やった時、メチャメチャ楽しかったよ。だって、今までに見たこともない特殊な技を使っていたんだから。とても感動し、「教えてくれ」と頼むと、富久は丁寧に教えてくれた。ありがとう。その技は今でも、僕の十八番だ。もう一度、一緒にサッカーをしたかったなあ...。

富久には、感謝しても、したりないぐらいの恩がある。それは、今から五年ちょっと前、ちょうど2月5日。入試の時期だった。あまり実力が出せず、中学校に立て続けに落ち、とても落ち込んでいた時、一本の電話が僕にかかって来た。電話をしてきたのは、富久だった。「ちょっと残念だったな。でも明日、S校の2次を受けるんだろ。君なら絶対受かるさ。自信持てよ。今まで一緒に頑張って来たじゃないか?明日はきっと大丈夫さ。頑張れよ。」と、なんと、励ましの電話をしてくれたのだった。そして、その電話に励まされた僕は、見事、S校の入試を突破することが出来た。本当にありがとう。

中学に入ってからは、お互い別々の学校ということもあって、ほんの数回しか会えず、中2か中3で会って以来、富久と会うことが出来なかった。非常に残念だ。君のお父さんから聞いた話だが、ボクシングを始めたんだってな。相当辛かったらしいけど、頑張れる、富久、お前の意志はスゴイよ。まだ、沢山やりたい事があったんだと思うよ。残念だ。でも、お前の分も俺達が頑張って行くから、そっと見守っていてくれ。じゃあ、またな。

 

富久へ

君との再会がこのような形になってしまって残念でならない。

お互い別々の学校に進んだがボクシングに夢中になっていることなど君のことは鉄緑会の麻布の友達を通じて聞いていた。「四谷の仲間とは、また大学で再会するのかな?」なんてことを思っていた。四谷でも後半は別のコースに分かれてしまったが、「四谷の思い出」と言われれば君と一緒だった前半の思い出がほとんどだ。

国語の時間の列対抗戦。君は他がどんなことを言おうと自分の選んだ答えを変えず、主張した。時にはそれが違っていることもあったけど、しっかり自分を主張することのできる姿勢と、自分の答えの根拠を主張するときの声の調子、真剣な眼差しは今なお記憶に残っている。

社会の時間。君が小学生の悪ふざけのようなもので授業を中断させてしまい、気まずい雰囲気になった時、「僕のせいで皆の時間が使われてしまって...。授業を再開して下さい。お願いします。」と涙ながらに訴えたことがあったよな。悪ふざけで授業を中断させてしまうことなど小学生だから誰でもあるだろうが、「僕のせいで皆の時間が使われる」なんて、とても小学生が言える言葉じゃないだろう。小学生の時からそのくらい君は大人だった。

君の父親から君がいかに強靱な意志を持ち、ボクシングなどのスポーツに一生懸命になっていたかを伺った。

「自分は今、そのような強い意志を持って何か打ち込んでいるものはあるか?」

改めてやはり君は大人だなと思ったよ。

ありがとう。何かに一生懸命に取り組むことの素晴らしさを教えてくれて。

君のとの思い出は一生消えないし、君はずっと僕らの心の中に生き続けるから、僕らを見守っていて欲しい。

 

富久 信介へ

 もうどうしようもないことだけど、自分の心の整理をつけるために、今、この手紙を書いてる。

君のことを知ったのは、僕も期末試験中の何の変わりもない朝だった。その日、僕は、いつも通り起きてきて、身仕度を整え、食卓についた。そして、朝日新聞をひろげた。そこに、富久信介君という文字と顔写真があった、中学受験を共に戦い抜いて、喜んだり、ふざけあったりした友の訃報が入った。前の日、電車の脱線事故があって、高校生が亡くなったというのはTVで知ったがテスト勉強のために、そこでTVを切り上げて、勉強に没頭した。まだ、この時は、亡くなったというのが君だとは、知らなかった。でも何となく心に重い感じが残って、ひっかかるのもがあったのは、後になってみれば、このことだったのかもしれない。

 そして、動揺した心のまま、電車に乗った。心なしか、人の数が少ないように思えた。学校について、Kに会った。もちろん話題は、富久のことだった。テストなのに、勉強が手につかず、落ち着かなかったが、テストが終わって、友達と話していると、いよいよ、「同級生の死」という事件が自分の中で真実味を帯びてきた。「なんで?」と悔やんでも悔やみ切れない思いが心を満たして、それを反芻してばかりいた。その場で、富久の家に行くことが決まった。

 テスト最終日、僕を含めた何人かは、集まって、君のいる場所を目指した。もうそこに君は、いなかったかもしれないけど、僕達は、そこに着いた。門の前に着いて、誰一人として、足が動かなかった。ようやく、Yが呼び鈴を鳴らして、家の中に入れてもらって、棺の前に座った。お父さんの話を聞いて、親というものの無念さを知った。いや、両親は必死でその無念を隠そうとしていたけれど、隠し切れなかった一部が表れたのかもしれない。君のお母さんが、「どうか、この子を、心の中に留めておいてやって下さい。もうここにはいないけど...」と言った時、不意に涙が頬を流れた。自分でも驚いた。何も考えずに、ただ泣いた。素直な心の自分がそこにいた。線香をあげ、棺の中の顔を見た時、これが富久だとは、信じられなかった。あまりにも顔・形が違っていたからだ。それだけ、事故の悲惨さ、衝撃を物語っているんだけど、言葉では言い表せないほどだった。多分、君を前にして、少しの間、完全に止まっていたかもしれない。ほんの一瞬だったけど、小学校時代の思い出がふっと思い出された。あまり多くは喋らなかったけど、いつも友達の輪の中にいた富久信介の像と、そんな中でも時々ギャグを飛ばして、人を笑わせていた気さくな性格。君の言った「言い訳なんて、していいわけ?」は、本当におもしろかった。それに、特に理由はないけど、ものすごく正義感の強い人だったっていう印象があるんだよね。なんでだろう。

 お父さんの話を聞いて、まず思ったのは、自分より、何倍、何十倍も急がしい人生を送ってるなってこと。そんなに目一杯やってどうするの。自分の人生だから、他人に介入されるのは、嫌だだろうけど、こっちが感心(というか唖然)するほど、やりたいことをして、青春を突っ走ってる感じがする。な〜にも生き急ぐことはなかったのに。君は、欲張り(言い換えると、行動力がある)だから、人生もその勢いで通過しちゃったんだよ。きっと。そう信じたい。ネガティブな、「運命だから」とか「仕方がなかった」とかの理由で片付けたくない。もっと前向きに、自分の人生の枠組みにおさまりきらない人だったという風に考えたい。あんまり、亡くなった人の分まで、がんばりますというのは、その人がやり残したことが一杯あるみたいで、嫌だけど、そういう時は、その人なりに精一杯、生きた結果なんだから、といつも反発ばかりしていたけど、今回は、突然のことだったし、自分のよく知ってる友達だから、あえて、言葉を借りて、富久信介の分を頑張って生きていこうと思ってる。それに、君の死を、絶対にムダにしたりはしない。そう思うと大変なことを残していってくれたなと思うけど、やりがいのある仕事だと思って、できる限りのことをやらせていただきます。ここで手紙は終わりだけど、ずっと君のことはおぼえているからな。

 

富久へ

久しぶりだな。もう五年以上も前のことだったんだな、あの四谷大塚での授業は。麻布栄光特別コースに入っていたよな。今考えてみると、あの頃は、塾に週5回のペースで通って、学校も毎日行って、本当に大変な生活をしていたと思う。でも、そんな中にあって、楽しく毎日を過ごせたのは、塾での楽しい一時があったからかもしれない。目崎先生や、寺門シャーマン、マッチ棒、板橋先生、懐かしいな。消しゴムにホッチキスの芯を挿し込んで飛ばし合ったり、近くの本屋で悪さをしたなあ。コーラを思いっ切り振って飲んだりした。雨の日にオレが転んで救急車で運ばれたけど、何ともなくて、その日だけはテストの点が良かったべ。こんな話をみんなでしたかった。オレはサッカーだけは誰にも負けないと思っていたから、お前と勝負したかった。足がめちゃくちゃ速いらしいって聞いたけど、負ける気しなかったぜ。足の速さでは負けても、テクじゃ負けない自信があった。中学入ってからも、友達から富久の噂をよく聞いた。サッカー部辞めたらしいって聞いた時はショックだったけど、足の速さは相変わらずだったらしいな。Iん家にカミナリ落ちたとかも聞いた。ボクシングやってるらしいって笑いながら友達は言ってたけど、カッコイイナと思ったよ。絶対、話してみたいと思った奴だった。オレは心の整理がついてないし、ちくしょうって思う気持ちは強いし、何も言えない人間だけど、お前はオレの心の中で生きているよ。それだけは確かだし、そう信じたい。

 

富久へ

小学生の時から勉強が出来て、運動神経もよくてスゴイと思った。麻布に行って、いろんなスポーツやってたみたいだな。サッカー、ラグビー、ボクシング、...。本当にスゴイと思う。それで、将来は東大には入って、なんて、俺には考えられないよ。君の父さんからいろんな話を聞いたよ。減量の話、四谷の話、学校生活の話、充実した毎日を送っていたんだと思う。でも、あんまりだよな。友達だって、いっぱいいたのに。みんなが涙流して悲しんでたよ。俺だって、テレビに名前が出てきた時は信じられなかった。死ぬってどんなことか分かんないし、事故の状況もよく知らない。けど、今は天国から、みんなのことを見てるんだろうな。17年の人生でも、やりたいことはまだいっぱいあったかもしれないけど、これからは天国から、お父さん、お母さんそして友達を見守ってあげて下さい。

 

富久君へ

 僕が富久君に初めて出会ったのは小学生5年生の時でした。富久くんとは四谷大塚の算数と国語の時間で一緒にクラスになりました。特に国語のクラスには他の算数や社会、理科のクラスと比べて僕達の仲間の人が少なかったこともあり、富久君とも自然に仲良くなっていきました。

 富久君は小学生の時からガッチリしていて、身長も高く、僕達の中では体格の面でも一番大人っぽくて、また内面的にも大人びていたように僕には見えました。色々な面でススんでいた彼は、時にはちょっぴり?エッチな事を吹き込んでくれたりもしました。勉強が出きたのに加えて、彼は見たままそのままのスポーツマンでもあったので(特にサッカーが得意だった)、羨ましくもありました。

 そんなこんなであっという間に1年がたって、僕達は6年生になりました。特別コースが始まるまでの間、再び富久君と一緒のクラスになりました。しかし、特別コースが始まってからは彼と志望校が違ったせいもあり、日曜テストの時、会うだけになってしまいました。けれどテストの帰り道では相変わらずガヤガヤと楽しくやっていました。

 受験が終わってからは富久君と会う機会はなかなかありませんでした。そして最後に富久君に会ったのは中一か中二の時の栄光の文化祭の時だと思います。A君とか他の仲間と一緒にサッカーをやり、他愛ないおしゃべりで盛り上がり、そして帰りました。これが最後になるとは思わなかったから...。

 正直、僕は6年生の中頃からは富久君とそれまで関係する機会があまりありませんでした。けれど、ラーメン博物館の近くのモスバーガーに一緒に夜ゴハンを買いに行ったり、授業そっちのけでおしゃべりに夢中になったり...と、僕が楽しく塾に通えたのも富久君や他の仲間たちのおかげです。そういえば林間学校先の箱根で偶然、やはり林間学校中らしき富久君を見かけました。(彼は気付いていませんが...。)

 富久君、本当にありがとう。今はただ冥福を祈ります。

 

富久君へ

私はお通夜に行ったが、複雑な気分だった。全くの突然で、何よりもこの年で友人の死に会ったからであった。また密かに特別コースの人と会えるという期待もあった。

思えば、私が初めて富久君に会ったのは四谷の頃で、まだ小五の私にとって、随分背の高い人だった。中学になってからは、中一の文化祭と中二の頃の浅井先生の岩倉学園での数学教室で会った以来、富久君のことは聞いてなかった。

というわけで、お通夜会場でA君、H君、S君に会った時は、うれしさを隠せなかったが、私としても、このような形で会うとは思わなかった。私も一昨年祖母が亡くなったが、その時の住職はこう言った。「死者の霊がどんな忙しい人も呼び寄せてくれるのです。」

富久信介君の冥福をお祈りします。

 

富久へ

長い塾生活を過ごした後、私達はそれぞれ別の中学校に入った。私が、その後、四谷に行ったのは受験後の同窓会だけだ。しかも集まって、すぐ別れてしまった。

その後、他の仲間とも会うこともないと思っていたが、こんな事で顔を見るとは思わなかった。

5年くらい会ってないので、名前すら思い出せない仲間も多いが、トミヒサのことは印象に残っている。

帰り道も一緒だったし、身長も高かったし、何より、気さくな奴だった。

5年間で変わったお前を知らないけれど、5年前に会っていた頃のお前のことをいつまでも記憶に留めたいと思う。

サヨナラ、トミヒサ。

 

富久君の御両親へ

 富久君とはほとんど話したことがないのですが、存在感のある人だったのでよくおぼえています。今回このようなことがあって、とても残念です。

 

富久へ

小6の時に横浜女子特別コースに在籍しており、富久くんたちの隣の教室で勉強していました。受験では慶応中等部に合格し、今は慶応大学に通っております。

もうあの悲惨な事故から二年も過ぎたのですね。新聞の小さな囲み記事を見てやっと気づいた自分に、少なからずショックを受けました。

他の多くの友人も言っている通り、富久くんといえば男子特の中でも一番の有名人でした。体が大きくて、頭が抜群によくて、運動神経もいいらしい。男女混合で目崎先生の小テストを解く時なんかは、結局一度も一緒にできませんでしたが理科の苦手な私はいつも「トミヒサがいいなあ」なんて考えていました。

直接しゃべったことも多分数回程度なので、富久くんは私のことなんて覚えてないだろうけれど、でも私が当時の思い出を振り返ってみる時、男の子で思い出すのは本当に彼ぐらいなのです。だからあの日は、本当に、本当に、言葉を失いました。ちょうど、テストが終わってふと付けた夕方のニュースでした。日比谷線は友達が多く住む沿線なので、ありゃ、誰かまさか事故にはまってないだろうなと軽く思ったその瞬間、その名前と顔写真に、確かに見覚えがありました。画面に向かって「うそっ うそっ ママ、この子知り合いだよ〜!!!!」思わず叫びました。

それからは本当に悪夢というかなんというか、言葉では表せない悔しさがこみ上げてきました。毎日毎日繰り返される悲惨な現場の映像と、それに対して皮肉なほど極めて爽やかな、極めて「生」に満ち溢れた彼の生きざま。ほとんど初めて知った近況だったけれど、「でもトミヒサならこういうことやってそう!!」と納得できる、彼らしい生き方だと思いました。

しかしこんな形で彼と再会することになろうとは、本当に神様はひどい仕打ちをするものです。自分の強い意志で生き抜いた彼を思った時、自分の無力さや「何もしてない」生きようを実感してしまいました。数日経つと涙も枯れ果てました。死を実感しきれない段階から、やっと深く底のない悲しみが心に現れました。でも、お通夜とお葬式には高校のスキー部の合宿のために行けませんでした。これが富久くんの死の次に残念なことでした。

合宿先の山形蔵王のホテルの小さなテレビでその映像を見て、無念でした、本当に無念でした。お父様のお言葉、麻布生の見事な友情(校歌も)、そして最後のテンカウント。いつもバカばっかりやって人を笑わせるポジションの私は?トイレに行ってこっそり泣きました。きっとあそこには女子特の子達も駆けつけているんだろうなと考えると、単純にうらやましく思いました。

その後、「17歳のテンカウント」も購入しました。お金がギリギリだったけれど、今買わなきゃだめだ!って本が言ってくれたような気がして。昔の親友も話を載せていて、泣けました。同じ時間を共有しあった、戦友。今は別々の道を歩んでいるけれど、でもやっぱり彼は、誰にとっても「忘れられない人」なんですね。こんなに「死を悼まれる」人って、私の側にはかつてなかったと思います。それだけ、熱くて大人びててでもどこか子供っぽくていつも頼れる「兄貴」だったのでしょう。

そしてそれだけ、あの特別コース時代はみんなの心に「特別」なものでした。こうしてやっとこのページの存在を知り、遅ればせながらあの事故を振り返った今、私にも、やるべきことがある。と強く思いました。今すぐに見つからなくても、たとえ実現しなくても、自分を必要としている場所、自分が好きなことを富久くんのように極めたいと思っています。それが、私のことを知らないだろう彼の右ストレートな生き方に対する私の作戦です。

ずいぶんと長くなってしまいました。しかも特別コース時代は国語だけはトップレベルで自信を持っていたはずが、勉強しないこの学校に育っていまやこんなに拙い文章を書くことになってしまいました。申し訳ありません。

でも、私の中で彼の存在を風化させないように(というか絶対に風化しないだろうけれど)今日はどうしても言葉にたくしたかったのです。

最後に、天国の富久くんとご家族様に、意味もなく私の夢を綴っておきます。女子特時代の「検事」も捨てがたいのですが、今は断然、新聞記者になりたいと思っています。きっかけは大好きな高校野球の記事で感動するものに出会ったからなんですけれど、大学に入って法律を学んでみて、マスコミという第4権力の過剰取材による、「被害者家族への加害」という観点で人権問題としてのマスコミのあり方を研究していきたいと思いました。もちろん、自分のように人を感動させるような記事を書くことが最終目標ですが。語彙力なし、文章力なし、構成力もない私ですが、でも夢を持って生きてくのが人間のあるべき姿だよね?トミヒサ。

遅くなりましたが、改めて富久信介くんのご冥福を御祈りいたします。

じゃあね、トミヒサ!!あたしも今サッカー大好きだよ。W杯見たかっただろうね。あたしが代わりにこの大声張り上げとくさ!

平成14年3月