富久信介のプロフィール

 

1982年7月2日 横浜にて生まれる。
1987年4月1日 南白ゆり幼稚園に入園
1989年4月1日 横浜市立別所小学校入学
1995年4月1日 麻布学園中学入学
2000年3月8日午前9時1分 営団地下鉄日比谷線中目黒駅脱線衝突事故で逝去

麻布中学・高校時代

私は、この思い出を信介への「惜別」として、書くことにしました。弟も妻もいる。零細ですが社員もいる。私が前に向かって歩き出さなければ、全て崩壊する。信介は、どうやっても帰って来ないし、二度と会うことができない。信介の時間は3月8日午前9時1分で止まってしまっている。私自身の心に区切りをつけるため、信介を私の心にしまい込むため、3月8日から一歩でも踏み出すため、妻と弟と社員のため、私の分身のような信介に訣別しなければならない。常に全力で前へ向かって突っ込んでいった信介を見習って、私も前へ進まなければならない。この「プロフィール」が、信介の友人の皆さんに読んで頂いて、信介を思い出としてしまい込んで頂いて、前へ向かって進む一助になれば幸いです。南白百合幼稚園、バディースポーツクラブ、公文学習塾、東京マリーンスイミングクラブ、横浜YMCAサッカークラブ、別所小学校、四谷大塚そして麻布学園の先生と友人、笹崎ジム、横浜光ジム、河合ジム、大橋ジムの会長、トレーナー、プロボクサー、練習生の皆さんへの感謝を込めた思い出です。

信介には、特に親が困るような悪いことはしないので、何でもやらせ、大学生のような扱いをしたつもりです。信介は、ずーっと、何でも一生懸命でした。何でそこまで、思い詰めるのかと思うことがしばしばでした。自分の能力を信じ、あらゆる努力をして、全力で駆け抜け、全身全霊で突き進んでいっておりました。私も妻も、信介のやりたいことは殆ど全てやらしてやったということで、信介の嫌がることは押しつけてきませんでしたので、その意味では後悔は全くありません。尻を叩いて勉強させるとかはしたことありませんし、信介は素晴らしい友人、先輩、後輩に恵まれ、やりたいことをやり、全てが思い通りにはなりませんでしたが、密度の濃い人生を十分に全力で生き抜いたと信じ、今はそんな信介を誇りに思っております。「信介、俺はもうすぐ、前を向いて歩くことにする。俺が死んでお前に会うまで、しばしの別れだ。俺は死ぬのが恐くなくなったよ。親父とじゃ、気が進まないかもしれないが、一緒に酒を飲もう。楽しみにしているよ。」

私は、麻布の友人だけでなく、幅広く色々な人達と知り合って、人間の価値は偏差値じゃないということを信介に教えたかったので、ボクシングジムでの大人との付き合い、私の友人との麻雀、等々ことあるごとに信介をそういう場に引き込むようにしました。家の中での父親・母親に対する態度と違い、外では礼儀正しく、みんなに愛されていたようです。死後、みなさんにそう言われました。私は、私や妻に対する生意気な態度から、「これじゃ、友達もできないし、ジムでも失礼なことをしてるんじゃないか。ガールフレンドなんて絶対出来ないな」とずいぶん心配していたんですが、杞憂だったようで、私の方針は間違っていなかったと安堵しました。私は、「人に迷惑をかけるようなことはするな、授業さぼるのも構わん、授業中寝るのもいい、お前がツケを自分で払えばいい、だけど、授業の邪魔はするな。万引きとかキセルとかつまらんことはするな、僅かな金でプライドを売るな、心を売るな。それに、お前は強いんだから、絶対に弱い者イジメはするな。喧嘩するなら、強い奴とやれ。初めから勝つことが分かっている奴と喧嘩して何になる。姑息なことはするな、正面からぶつかれ、それでダメなら諦めろ。」と常々、信介には言っておりました。偉そうなことを思われるかもしれませんが、まあ当たり前のことでもあります。人に迷惑さえかけなければ、ギャンブルでも、酒でも、好きにすればよいというのが私の信介に対する方針でした。

 

麻布学園の入学式には妻が出席しましたが、その時、「麻布には、これをしてはいけないと云う規則はありません」という校長先生の言葉を聞き、妻は驚いたと話してました。また、文実の委員長(文化祭実行委員長)が奇抜な姿で挨拶し、新入生の度肝を抜いたそうです。私は、それを聞いて、「麻布に入れて良かった」と思ったのを覚えております。

麻布学園に入学してからは、文化祭も運動会も何でも来るなと言われ続けておりましたので、学校のことは殆ど私には分かりません。一年生の時、一度だけ文化祭に行きました。あまりに女子中学生や女子高生が多いのでちょっと驚きました。尤も、女子校にしか案内状は出してないとのことですから当たり前かもしれません。毎年1万人くらいの入場者があるそうですから、下手な大学より華やかです。

そういう年頃なので仕方ないのですが、学校のこと、部活であるサッカー部のこと、友達のこと、殆ど親には話してくれなくなりました。少なくとも5年間は好きなことが出来るよと私が言っていたので、信介も勉強はしないと決めていたようです。大学受験は高3の1年間やれば何とかなると決めていました。従って、勉強については、どれだけやらなかったか、しか書くことがないのです。「麻布でも、俺ぐらい、学校で寝ている奴は他にいない。今日は1時間目から6時間目までずっと寝た」とか、試験前の一夜漬けしかやらなかったとか、そんな話ばかりです。ですから、成績もどんどん落ちて、死亡したときは真ん中くらいだったそうです。こんな事もありました。「麻布は自由だというが、ウソばっかだ。俺が授業中寝ていたら、先公の奴、起こしやがる。どこが自由なんだ」と真顔で言うのには、呆れました。

麻布学園という学校は期待に違わず、自由で、素晴らしい学校で、校則もなく、制服もない。信介も5年間殆どジーパンで通しました。「多少の悪さには目をつぶります。しかし、イジメなどがあったら、これは体を張ります。」と信介の死後、先生がおっしゃいました。信介も、「イジメはないんじゃないか」と言っておりました。

中1の教科で驚いたことがあります。普通、中学では理科とか社会という科目がありますが、麻布ではいきなり化学とか世界(史)という科目がありました。私は大学で応用化学を専攻しましたので、一応化学の知識があります。信介の中1の化学の内容をみて、本当に驚きました。大学で習った覚えのある内容を勉強してました。博士課程に在籍中の若い先生でしたので、気負いもあるのかなとは思いましたが、信介に聞いてみるとちゃんと内容を理解してました。考えてみれば、中学の理科や社会なんて、あまり意味があるとは思えなかったし、易しくて時間の無駄でした。高2までで高3の課程は全教科終わらせます。それにしても、これでは、私がそうだったように公立高校生が中高一貫の私立高校生と競争するのは大変だなと実感しました。スタートが違いすぎます。中学の3年間を無駄に過ごすようなものですから。私は部活をやったりしてよく遊びましたから、全部無駄ではなかったですが、ただ、勉強の面では大きなハンデとなると思いました。有名大学合格者の上位校は殆ど中高一貫の私立や国立の学校が占めているのは、当然の結果なのでしょう。

私は信介を小5の頃から大人扱いしていて、中学からは、基本的に大人として扱いました。ですから、信介は何でも自分で決め、実行する癖が付いておりました。頑固で自信家ですから、父親や母親が口を出すと逆に怒られました。勉強するも良し、しないも良し、要は信介が自分の人生を自分で考え、判断・行動すればいいので、信介がその判断や行動を誤ることなど、日頃の言動からは考えられなかったので、信介をまあ99%は信頼してました。ですから、お金がかかるとか道を外れるとかあれば別ですが、そういうこともなく、信介の判断や行動に反対したことは殆ど記憶にありません。曲がったことが嫌いな熱血漢というのは分かっていたましたし、常に目標を持っていましたから遊びを覚えてもそれにおぼれて自堕落になるなど考えられませんでしたので、あまり心配はしませんでした。自制できる奴でした。逆に私が遊びに引き込んだことがたびたびでした。ただ、ちょっと、頭に血が上りやすく、切れやすいと言う欠点もありました。ケンカも好きだったようで、その言動から、人を傷つける心配はありました。若いから、1度や2度の失敗は覚悟してました。それが、大怪我でさえなければ、誰にでも覚えのあることですから。

入学して2、3ヶ月経った頃から、「麻布になんて来るんじゃなかった。お父さんはウソばっかだ。ろくな奴がいない。親友なんて出来るわけがない。公立に行けば良かった。」などと、事あるごとに文句を言うようになりました。小学校でダントツの子ばかり集まっている訳なので、みんな我が強く、「俺が、俺が」という雰囲気がある。人のことは良く言わない、けなす、馬鹿にする、等々。信介本人だって、そういうところは十分にあり、その内の一人に過ぎないんですが、体も心も大人に近い信介にとって、周りの子はまだ小学生の延長で、彼らの遊びにはついて行けなかったようです。「あんな奴らが東大に行くのか、俺は行かない」とか「小学校のサッカーの仲間は良かった。みんな仲間をかばい合ういい奴だった」とか。私は、「信介、もう少し待てよ、みんなまだ子供なんだ。これから成長するにつれて、変わって行くから」と必死でなだめました。私が高2の時、左目を怪我して3ヶ月ほど1日おきに学校帰りに医者通いをしていたことがあり、その時、いつも一緒に帰っていた友達二人が医者の外で毎回30分位立って待っていてくれたんです。この話を信介は憶えていて、ずっと、心に残っていたんだと思います。だから、私が「麻布に行けば生涯の親友が出来るよ」と言ったことを信じていて、しかも、直ぐにそういう友達に出会えると考えていたようです。「お父さんはウソばっかだ」と中3くらいまで責められました。どうも、信介はオーバーな奴で、父親の私に反発があっただけで、実際にはいい友達が沢山いて、生涯付き合える友人が何人もいたということは彼の死後、よく分かりました。私も妻も、信介が生前、麻布での学校生活を十分楽しんでいたのかが非常に気なっていたんですが、驚くほど沢山の友人に恵まれ、その話を聞くにつれ、信介こそ麻布の自由な気風を満喫していたんだとわかり、「やっぱり、麻布に入れて良かった」と安堵しました。それに、高2になってからは、全く文句は言わなくなり、私は「やっと生涯付き合えそうな友人達が出来たのかな」と想像しておりました。

 

麻布ブランドのこと

入学して暫くしてから、麻布生という色眼鏡で見られることにひどく反発するようになりました。麻布の校風は気に入っていたんですが、「勉強の出来るお坊ちゃん」と見られたり、言われたりするのを極端に嫌っていました。中身を評価されるならいいが、ブランドを評価されるのは我慢がならないようで、一度漏らしてましたが、名前の代わりに「おい、麻布」とジムか何かで言われたそうで、ひどく傷ついていました。だから、東大生というブランドも嫌っていて、大学まで色眼鏡で見られたら堪らない、東大なんか行かないと常々言っておりました。私は二度も失敗した大学なので、東大コンプレックスの塊です。冗談で「東大受けろよ、行かなくてもいいから合格だけしてくれ」と信介に言ったことがあり、信介はニヤニヤしてました。「東大って言うけど、東大出て、サラリーマンになったって、お父さんの方が上だよ。自分の力で翻訳でも会社でもやっているんだから」と私を喜ばせるようなことも言ってくれました。私の記憶では、私のことを直接面と向かって認めてくれたのはこの一度だけです。私は、大学を出てから、実際には、学歴で勝負も差別もしたことはなく、学歴の通用しない、実力だけの翻訳業を長いことやってましたので、信介も分かっていたんだと思います。

信介が一部マスコミで報道された「東大生プロボクサー」を目指していたなんてことは、マスコミが作り上げた虚像です。ましてや、官僚など、信介が一番なりたくなかった職業の筈です。「俺はサラリーマンにはならない。自分で事業を興す」と言っており、これは本心だと思います。官僚の汚職事件などをテレビで見ると、ボロクソで、「悪には悪をもって制さなければ何も変わらない」などと極端なことを言っていたくらいです。私の役人嫌いの影響を受けていたと思います。

 

サッカーのこと

麻布に入学と同時にサッカー部に入り、FWとして活躍していたようですが、監督もコーチもいない普通の部活ですから、プロ志望の本人には満足できなかったようで、中2の時には、いっそ他の学校へ転校しようかなどと悩んでいました。ただ、どこかでプロは諦めたようで、プロになりたいとは言わなくなりました。サッカーは勿論好きなので高1の半ばか終わりまではサッカー部に在籍していました。学校には殆どサッカーと後のラグビーをしに通ったようなものです。5−0で勝った試合で5得点全部信介が入れたこともあったようです。足が速いし、向こう気が強くて、強引な奴ですから、FW以外は考えられません。

 

ラグビーのこと

ラグビーは、高1の終わりから高2の終わりまでの1年間やりました。何も言いませんでしたが、色々な文句も言わなくなりましたから、居心地がいいんだろうと思っていました。生涯付き合える友人が出来たのかなとも思っていました。格闘技と球技が好きな信介にとって、ラグビーは面白かったのでしょう。何しろ、突貫小僧でしたから。ただ、「まだ、ルールがよくわからん」と妻には言っていたようです。ポジションはNO.7フランカーでした。また、書き加えます。

 

ボクシングのこと

中2の頃、麻布を辞めるとか何とか、多少荒れておりまして、かなり心配しておりました。サッカーが思うように行かず、面白くなかったんだと思います。あのエネルギーを何とかしないとと心配になり、男は人生の中で一度は腕力がないため屈辱を味わうことがあるから、強くしたかったのです。十分喧嘩は強いようですが、半端に強いのは弱いのよりもっと危ないから、また、本当に強くなり自信もできれば弱い者イジメはしないのが普通ですから、格闘技を勧め、空手や合気道などの中から、本人はボクシングを選んだ訳です。中2の半ばでした。早速ボクシングマガジンを購入して、ジム探しを始め、通学途中の笹崎ジムに私が電話を入れ、後は信介が自分で入会手続きをしました。その後、指導方法に不満があったのしょう、まあ、中学生だから、スパーリングはやらせてくれないし、しょうがないんですが。今度は、畑山選手を指導している有名な韓国人トレーナーのいる横浜光ジムへ移りたいと言い、私もOKしました。中学生なので、そんな有名なトレーナーの指導を受けられるわけでもなく、いらいらしてました。今度は私が河合ジムを探し、通わせましたが、なかなか自分の思うようには指導してもらえなくて、満足できなかったようです。高1の初めに、自分で大橋ジムを探し、入会しました。結局、私は一度もこれらのジムに行ったことはありません。信介には例の通り「来るな」と言われておりました。ボクシングの試合は高校生からです。中学では試合はありません。サッカーは続けておりましたので、学校での練習の後、ジムに通うという生活を続けていました。ボクシングを始めた頃、冗談でこんな事も言ってました。「俺はアトピーだから、顔にパンチ食らっても痛くないんだ、気持ちいいくらいなんだ。」アトピーの子供を持つ人なら分かるんと思うのですが、掻いてやる時に爪を立てると、血が出るまで掻くことになるので、叩いてやるんです。物差しなどで叩くことで痒みを紛らわせるんです。

ボクシング部として正式に東京都の高校ボクシング連盟に加入し選手登録をしないとどんな試合にも出場できないので、「俺が、先生に頼んでやろうか」と私が言ったら、信介は「いいよ。自分で頼むから」と言って、信介は高1の担任に頼み込んで、顧問になってもらい、校長の許可を得て、ボクシング部を作りました。ボクシングは非常に危険なスポーツで、場合によっては、死亡したり植物人間になったりする可能性があるので、いくら親が了承しているとはいえ、事故が起こったら、ボクシングの経験のある先生はいないのですから、二人の顧問の先生も校長も責任を問われるのは必定です。さすがに「判を押すときは覚悟を決めて押した。生徒の熱意を無駄にしたくなかった。ただ、ボクシング部は麻布始まって以来のことで驚いた」と信介の死後語ってくれました。他の学校でしたら、一人でボクシング部の設立など相当難しかっただろうと思います。毎試合、顧問と校長の判が必要です。「一日で判が貰えて驚いた。公立高校だと一週間はかかる」とジムの指導トレーナーは言っていました。また、大橋ジムに出会わなかったら、試合には出れませんでした。試合にはセコンドとして3人必要ですが、麻布には経験者がいないため、大橋ジムのトレーナーと練習生2人が毎試合ついてくれました。試合は殆ど土日ですから、休日をつぶしてボランティアでセコンドをやってくれたわけです。私が「信介、お前も必ずお返しをしろよ。試験中だろうが何だろうが、手伝えよ。」と言うと、「分かってる」とは言ってました。私には何も言ってくれませんでしたが、ちゃんとお返しをしていたのなら、いいんですが、ちょっと心配です。

信介のボクシングは麻布と大橋ジムという二つの素晴らしい出会いがなければ成立しなかったのです。私は、今となっては感謝しても感謝しきれない恩義を感じております。おかげで、信介はやりたかったことをやり通すことができたんですから。戦績は多分5勝5敗(内、2敗は肩脱臼棄権)位だろうと思います。高3になれば、強い選手はいないので、都代表は確実で、5月の試合を楽しみにしていたようです。インターハイに出ることが目標でした。ただ、将来を嘱望されるような選手ではなかったと思います。大橋秀行会長(元世界チャンピオン)は、「富久はプロ向きだ。スパーリングでプロの4回戦ボーイをKOしたこともあるよ。とにかく、パンチが強い。一発やられると、ムキになって突っ込んでいくブルファイターだよ」と死後、語ってくれました。

信介には、「何かあっても、ジムや学校には文句を言うなよ」と念を押されていました。何かとは、意識不明や死亡事故のことです。「分かっている。ただし、防御を上手くなってくれよな。ぼこぼこやられるんじゃ、親としては見てられないからな。」勿論、妻はずっとボクシングには反対でしたが、私が認めているので、仕方なく応援してました。大橋ジムは親の応援を求めていましたので、信介もやむなく、親が試合を見に来るのを認めていました。お陰で、数試合をビデオに収めることが出来ました。私達の宝物です。

デビューして3戦目の横浜市民大会の試合で、スパーリングでも経験ないサウスポーの選手と対戦して、2回スタンディングダウンを取られて、RSC負けをしました。サウスポーのパンチが見えなかったのです。パンチの強い選手で、信介はかなり打たれて、負けたのですが、自分のコーナーへ戻ってきた時、悔し涙を流していました。あの悔し涙を流した顔は忘れられません。この試合の後は、会長の期待を裏切ったとものすごく落ち込んで、普段向こう気の強い奴が、自信を失って、どう慰めたらいいか、困りました。ボクシングの試合は一対一の殴り合いですから、負けを人のせいにはできません。ちなみに、「暴走族はジムへ入会するが、大抵ダメだよ。リングに上がると怯えて」と大橋会長が言っていましたが、怯えたら終わりです。危ないんです。命に関わるから。暫くして、東京都の公式戦があり、この試合の前が大変でした。1勝1敗1肩脱臼棄権で迎えた第4戦です。「この試合に負けたらどうしよう。会長に合わす顔がない。もう終わりだ」と、いつになく神妙で、「信介、全力を尽くして、練習の通りにやれば、いいんだ。結果を考えるな」とか色々私が言っても、怒りません。中学・高校通じて初めてだと思いますが、こんなに神妙で謙虚に私の言うことに耳を傾けたのは。いつもは、どこから出てくる来るのかと言うくらいの自信の塊ですから、その落差に私も胸が痛みました。一人で戦う競技ですから、誰も助けてやれません。「お父さん、囲碁教えてよ」とか、信じられないことが起こりました。必死に、心にある不安と戦っていました。手に取るように分かりました。多分、信介には初めての経験かもしれません。幸いにも、この試合はRSCで勝ちました。ほっとした、嬉しそうな顔で会長に電話で報告していたのを鮮明に憶えております。

中3の時、視力を上げるため、視力回復センターというところに通い始めました。信介は片方の目が、視力0.2か3で、プロになるには、両眼とも0.6以上の視力が必要です。それで、行き始め、2ヶ月位通うと、後は自宅で訓練です。半年くらいで止めたのかと思っていたら、死後、2年半分の訓練データが出てきて、驚きました。根気よく、努力していたんだと涙が出ました。全く好きなことには努力を惜しまぬ奴でした。その頃から、TVゲームは目に悪いので、好きだったんですが、余りやらぬようになりました。視力回復のトレーニングをやりながら、TVゲームをしたんでは、効果がありません。自制するようになったのです。それと、電車の中で本を読むとか勉強するとかも、目に悪いのでしなかった様です。

現在の家は、信介が中2の終わりに建て、その時、日の当たらない1階にジムとホームバーと和室(掘り炬燵があるので後に麻雀部屋になった)を作り、サンドバッグや筋力トレーニングのマシンを通販で購入してやりました。バラで来るので組み立てるのが大変でした。信介はこの家に死ぬまで3年間住んでいたのですが、信介のために建ててやったようなものですから、気に入っていました。私が、「今景気悪いし、この家、手放すことになるかもしれないよ」と言ったら、「この家はいい家だよ。出世払いで、俺が買う」などと訳の分からないことも言ってました。

信介は最初ライト級ですから、確か、60KGがリミットです。4キロ程を4週間くらい掛けて落とすんですが、殆ど贅肉は付いてないんですから、大変です。朝食はコーンフレークに牛乳あるいはバナナ1本、昼食はおにぎり1個または抜き、夕食は野菜サラダをボール一杯だけ、間食にはスナック菓子一袋とノンカロリーのジュースとアイス一本。この生活を4週間くらいやるんです。勿論、その間、毎日ジムへ行きトレーニングし、ロードワークもするわけです。私達は遠慮せず、信介の目の前でも好きなものを食べていましたが、信介は文句も言わず、大した意志の強さです。私も妻もダイエットに挑戦してましたが、挫折の連続で、「あれが出来れば痩せるよな。でも出来ないな」というのが常でした。サウナスーツを着て走ったり、サンドバッグ叩いたり、エアロバイクを1時間もやったり、「何で、これだけやって、300gしか減らねえんだ」とその辺を蹴飛ばしたり、かなり大変でした。どうしても、リミットまで落とせないと、試合当日の朝、洗面所でガムを噛みながら、唾を吐き続けて、落とすんです。500g位は落とせます。検量が終われば、試合までの間に水分の補給は出来ますから、一時の辛抱です。頬がこけて、精悍な顔になりますが、これだけ苦労して体重落としても、試合で勝てる保証はないんです。ぼこぼこにされちゃうかもしれないんですから、ボクシングは大変な競技です。信介は「苦労して減量すると、減量してない奴なんかに負けてたまるか」と言う気持ちになると言っていた事があります。途中から、一階級上げて、ライトウェルター級になりました。「まだ、高1なんだから、体に悪いよ。一階級上げたら」という私の進言も考えたのでしょう。試合が終わると、焼き肉などを食べまくり、直ぐに2キロくらいは体重が増えます。

これは、大橋ジムのかつてプロで活躍した笹脇トレーナーの話ですが、「ボクシングのリングは戦場なんだ。試合が終わって、控え室に戻った時、勝てて良かったなんて思ったことはないよ。生きてて良かったと思うんだ」と信介の死後、話してくれました。どんなに相手が参っていても、KOするまで手を抜けないスポーツで、情けをかけたら、次のラウンドに今度は自分がやられるかもしれないんです。つまり、試合は命がけなんだと。無論、プロとアマチュアは違います。ヘッドギアをつけるし、グローブは大きいし、なるべく安全な様に配慮してます。ちょっと打たれたら、直ぐスタンディングダウンをとります。それでも、毎年と言っていいくらい、事故は起こる様です。すごくパンチの強い選手にもろに打たれたら、たまりません。私は、この話を聞くまでは、ボクシングを普通のスポーツとして、ちょっと軽く考えていたんです。そんなに苛酷で、真剣なものだったとは、私自身経験ないので、思ってませんでした。考えてみれば、一対一の容赦ない殴り合いですし、初対戦が多いですから、真剣に練習してなければ、恐くてリングに上がれないのは当然でしょう。だから、信介は私が冗談で口を出すと怒ったのでしょう。今になって、分かりました。でも、なぜ、そんな命がけのスポーツにのめり込んだのか。私の友人のクライマーに話したら、落ちたら命がないからロッククライミングをやるんだと。分かるような、分からぬような。何でも全力でやる信介には合っていたのでしょう。苛酷な減量を見ていると、何でそこまで、命を削るようなことまでして、やるのかなと妻とはよく話してました。

大橋ジムへ入って1,2ヶ月した時、ジムへ行ってないようなので、軽い冗談のつもりで、「ジム行かないんなら、辞めたら」と言ったら、信介は激怒して、「お父さんは何も俺のことが分かってない」と、暫く口をききませんでした。信介には自分のスケジュールがあったんでしょう。親に口を出されるのが堪らなかったのです。その月から、信介は1万2千円のジムの月会費を自分で払うと言ってきかず、小遣いは1万円ですから、毎月2千円の持ち出しです。母親がお金を出すと、「いらねーよ」と投げ返す始末です。言い出したら、きかぬ奴ですから、仕方ない。暫くして、小遣いを1万2千円に上げてやりました。本当は2万円位にしてやりたかったんですが、プライドの高い奴だから、「お情けなんかいらん」と怒られそうで、私も妻も言い出せなかったのです。それからは、ボクシングに関するものは、試合用のシャツもトランクスもグローブもシューズも、バンデージに至るまで全て自分の金で買っていました。その金はどこから出てくるのか心配でしたが、お年玉や祖母からの臨時収入や昼飯代を倹約して、やりくりしていたようです。たまには麻雀や競馬の儲けもあったと思います。結局、死ぬまで約2年間、意地を張り通しました。PHSの電話も自分で購入し、その電話代も自分の銀行口座から引き落としです。私が「お前、小遣いないんだから、俺が払ってやるよ」と言っても、「いいよ」の一言で断られました。こうなると、毎月2,3千円の赤字からのスタートなので、ずいぶん心配しました。友達から借りたり、腕力はあるから脅して巻き上げたりしてないだろうなとか。友達との付き合いもあるんですから、部活の後、どこかで食事するとか。最初は、「かわいげのない奴だ全く」と妻ともども嘆いていましたが、信介は、自分で「どこか間違ってるな」と思っていた節があります。小学校時代のサッカーの友人は、高校生になって、バイトしたりして働いて自分の好きなものを買っていて、親からせびりとっていたのではないのです。親のすねをかじって好きなことをやるのは、しっくりこなかったんでしょう。ジムの練習生には働きながら、少ない収入の中から会費を払って、ボクシングをやっている人は沢山おります。「それに引き替え、俺は何だ。親のすねをかじっているお金持ちのお坊ちゃんか」と忸怩たる思いがあったのだと思っておりました。だから、私の一言を機に、全て自分の金で、やるんだと決心したのです。そうは、分かっても、親としては、参りました。昼は部活、夜はジムですから、バイトはする時間ないし、どうするんだと。私が時々「株で儲かったから、小遣いやろうか」などと言っても、「いらねえ」の一言です。せめてとの思いで、誕生日とかお年玉とかは奮発しました。あまり多額だと、怒られそうなので、3万円くらいです。全く、どこの世界に、親は別に生活苦ではないのですから、小遣いをやるのに、こんなに気を使わなくてはいけない奴がいるのか。私が後になって、株を勧めたのは、信介のプライドを傷つけぬように、小遣いをやるのはどうしたらよいかと考えた結果です。信介はお金にはきっちりしていて、何十万円渡そうが、心配のない、無駄遣いのしない奴です。

高1の運動会の騎馬戦で、初めて右肩を脱臼し、以来脱臼癖が付いていました。麻布の運動会は全て生徒の企画運営に任されており、かなり過激です。騎馬戦は相手を突き落とすまでやります。棒倒しも健在です。毎年救急車が来るそうです。ひどい時は2台も来たと言ってました。「棒倒しがなければ、運動会じゃない」「去年の棒倒しの時、右ストレート入れたら、相手の腰が落ちた」などと物騒なことを言ってました。「ボクサーなんだから、無茶するな」とは言いましたが、運動会はスポーツ好きの信介にとっては、一番の学校行事だったようです。事故の2,3週間前だと思うんですが、1月の試合で肩を脱臼して負けて都代表を逃したことから、私が信介の機嫌のいいところを見計らって、「信介、こうしろと言う訳ではないんだが、選択肢として、高3の一年間、トレーニングは続けても試合は休んだら。そうすれば、肩も休まるし脱臼しなくなるかもしれない。それに、受験勉強やれば、お前がしたくない浪人もしなくて済むんじゃない。そういうことも選択肢として考えてみたら」と恐る恐る信介に言ったのです。右肩は既に5,6回はずしております。そうしたら、「お父さんは俺のこと何にも分かってない」とものすごい剣幕で怒りまくり、テーブルを蹴飛ばして、睨み付けられ、私は右ストレートが飛んでくるかなと一寸心配しました。そのまま、ものも言わずに自分の部屋に行ってしまったのです。「何て奴だ。何で俺が怒られなきゃいけない。俺は選択肢があるよと言っただけだ。こうしろとは言ってない」と妻と呆れました。死後、聞いたのですが、大橋ジムの平戸トレーナーと相談して、筋肉を鍛えて、5月の試合に備えようということになっていたらしく、自分でスケジュールを立てていたんです。ただ、私にも妻にも何も言わないから、分からなかったのです。分かっていたら、それはそれで、今まで通り応援したんですが。ボクシングのことに口を出すとこの始末でした。脱臼は深刻に悩んでいて、「俺はもうスポーツはダメかな」と落ち込んでいたときもあります。ベンチプレスを一生懸命やったり、ビタミン剤をごっそり買い込んで、毎日欠かさず飲んでいました。ビタミン剤についてはものすごく詳しく、「俺はビタミン剤オタクだ」なんて言ってました。筋トレの後は、欠かさずプロテインを飲んでました。「俺も、飲もうかな」と言ったら、「お父さんは無理だよ。まずいから」と言ってました。ファンケルのカタログを見ると「全部買いたくなる」と馬鹿なことを言ってました。本当に、一生懸命、体を作っており、手入れも怠らず、その姿をずっと見て来ましたので、一撃で即死というのが、残念で可哀想でなりません。あれだけ苦労して鍛え上げた身体が一瞬ですから。

信介は人を誉めることが下手な奴で、殆ど誉めるのを聞いたことがありません。ただ、プロボクサーの辰吉丈一郎選手だけは認めていたようで、あれだけひどくやられても、倒されても倒されても、向かっていく、あの気力・根性には、「すげーな」と言っていました。強い選手に万座の中でぼこぼこにKOされても、恐いことはないんでしょうか。網膜剥離で失明の恐れがあっても、戦いを止めません。辰吉選手だけは無条件で認めていました。

信介が本当に目標というか認めていたのは元世界王者で何度も防衛した有名な川島郭志さんです。ディフェンスが上手で、殆ど打たれずに勝つ、歴史に残る名選手です。ただし、信介は運動神経は抜群でしたが不器用ですから、全く逆のファイタータイプです。

信介が高1の終わり頃だと思うんですが、スパーリングをもっとやりたいから、スパーリングをやらないと強くなれないから、ボクシング部のある横浜高校に転校したいと言ってきたことがあります。4年間も過ごしてきている麻布を辞めるのは惜しいので、私も妻も賛成はしませんでした。本気なら、止めることも出来ないので、承諾するつもりでしたが、本人も踏ん切りはつかなかったようです。まったく、信介はやりたいことが見つかると全身でのめり込み、他の全てを平気で捨てます。親としては勉学を平気で捨てて欲しくはなかったのですが、学歴も麻布ブランドも本人にとっては何の価値もなかったのです。大橋会長の言う「学歴も育ちも何も関係ない平等でクリアーな世界」に引き込まれ、自己実現の場を見い出したのでしょう。

また、死後、友人の話では「親父が理解があるから、俺はボクシングが続けられるんだ」とも言っていたようで、信介も私には多少感謝の気持ちがあったんだと嬉しくなりました。

 

株のこと

株は、高1の12月頃だったと思いますが、前述のように、信介に小遣いをやるために、「信介、お前も株やるか、資金は貸してやるぞ」と言ったのがきっかけです。ギャンブルは大が付くほど好きなので、直ぐ飛びついたのです。私が買ったのではあいつのプライドが許しませんし、勉強にもならないので、「50万円貸すから、会社四季報を見て、自分で銘柄を選べ。損したら、ちゃんと返せよ」という条件にしました。株の入門書を2冊ほど買い込んで、勉強し、自分で銘柄を探して、結局一番なじみのあるゲームソフトの会社の株を買いました。その株が、半年くらいで3倍になり、信介は100万円くらいの含み益を手にしました。友人には「俺は、慶応の入学金は作った」と自慢していたそうです。今もまだ持っているんですが、70万くらいに目減りしています。また、お年玉で当時金融危機で安かった銀行株を買い、一、二ヶ月で9万円が18万強になり、これは現金化して、信介に渡して、ほっとしました。これで、当分小遣いには困らない。その後も、インターネットで口座を妻の名前で開き、信介は自分でやっていたようですが、これは損を出していました。100万の含みが出来てからは、もうそんなに売り買いはしなくなりました。興味が薄れてきたようでした。現在高1の弟にも同様に資金を貸してやり、インターネットで株をやらせています。私は全く関知してないのですが、3割から4割儲かっているそうです。売買も活発で、弟の方が才能がありそうです。

 

ギャンブル・酒・たばこのこと

競馬は中学の頃からやっていたようですが、私が全くやらないので、よく分かりませんが、死後、信介の財布の中から去年の有馬記念のはずれ馬券が出てきました。

麻雀は思い出が沢山あります。
今の家は、信介の友人のたまり場になればいいと思って、一階を設計しましたので、麻雀が出来るように和室に掘り炬燵を作りました。今の子供は麻雀をTVゲームで憶えるのです。信介もそれで憶えて、中3から我が家で麻布の友達を呼んで、試験の後や、夏休みなど、暇があると、徹夜麻雀をやるようになりました。私は親密な付き合いが少ない現在、徹夜で遊べば、友人とも密度の濃い付き合いが出来て、親友も出来るだろうと期待しておりました。妻は、勿論反対で、中学生が麻雀などと渋い顔でした。途中からは、全自動卓を買えとうるさく、私も買おうかなと思いましたが、妻は大反対で、信介の友人の母親にひんしゅくを買う、合わす顔がない、うちは雀荘ではないと怒られました。

3年間、麻布の友人とよく徹夜麻雀をやっておりました。私も、時々加わりました。私は麻雀は好きなので、高校同期の友人や、大学のクラブの友人とかなり頻繁に麻雀をしていて、たいてい信介も加わりました。ですから、葬儀を手伝ってくれた私の友人は殆どが信介の麻雀仲間です。それで、みんな泣いて悲しんでくれたのです。あの事故の1ヶ月くらい前だったと思いますが、高校の友人と遅くまで飲み、麻雀をやろうということになり、メンバーが足りないので、信介を起こしてやるかということになって、我が家へ着いたのが夜中の2時頃です。インターホンで信介を起こし、「信介、お前、麻雀やるか、一人メンツが足りないんだ」といったら、「ああ」と言って、起きてきて、明け方まで、麻雀をしたことがあります。この麻雀が信介と打った最後の麻雀になりました。酔っぱらいのおじさん3人を相手に、可哀想に、一人負けでした。「おかしいな、何でこんな弱いおじさん達に負けるんだろう。」と言っていたのをよく憶えております。ここのところ、私の友人には、連敗してました。いつもは、カモが来たと喜んでいたんですが。この日は金曜日で、我々は土曜日が休みなので気楽だったのですが、途中で気が付いて、「信介、そういえば、土曜日って授業あるんだよな。大丈夫か?」と、勝手に起こしておいて、酔っ払っているとはいえ、ひどい言い草です。「いいよ。大した科目じゃないし、出席日数だけ足りればいいんだから」と全く意に介さず、大学生みたいなことを言ってました。尤も、高校生になってからは、麻布は大学みたいな感じでした。一時間目をさぼるなんてのはざらでした。でも、この時は、参りました。妻は「どこの世界に、夜中に子供を起こして、麻雀し、学校さぼらせる親がいますか」とカンカンです。1週間くらい妻の顔をまともに見ることが出来ませんでした。信介は午後のラグビーの練習に間に合うように出かけたそうです。死後、ラグビー部の友人が「土曜日に授業来ないで、ラグビーの練習にだけ来たことがあり驚いた」と話してくれて、顔が赤くなりましたが、今となってはいい思い出となりました。

中3と高1の冬休みに友人と3泊4日位でスキーに行ったことがありますが、この時も麻雀パイとゴムマットを持って出かけ、楽しんだようです。

あの事故の当日は、期末試験の最終日で、どうも、信介の友人達は我が家で麻雀するつもりだったようです。受験モードに入っているので、多分、高校最後の麻雀となったろうと思います。残念です。

パチンコは、去年の暮れだと思うんですが、信介が友人や先輩のスロットの話を頻繁にするので、「一緒にパチンコ行くか」と誘ったのです。信介はパチンコは初めてで、ビギナーズラックもあり、最初の2回で7,8万円勝って「パチンコは楽勝だな」とか言ってましたが、その後、一人で行ったり、一緒に行ったりして、結局、10万近く負け、「今度、勝ったら、もうパチンコはやめる」などと悔しがっていました。負けず嫌いなので、負けたままやめるのは沽券に関わるところがあったようです。株の含みがあるから、気楽だったのでしょう。事故の4日前の3月4日の土曜日午後1時頃ですか、私がいつものところでパチンコをしていると、肩をたたく者がいます。信介で、「金貸してくれ」というものですから、貸してやったんですが、空いてる台がなく、結局やらずに帰りました。あの時の顔も忘れられません。

たばこは嫌いで、私がヘビースモーカーなので、いつも目の敵にされてました。「たばこを止めるってのは、50回は聞いた。お父さんは嘘ばっかだ」とよく責められました。スポーツに悪いことはやりません。酒は、信介はビールが好きで、たまに飲んでました。飲むと言っても、缶ビールを一缶ですから、大したことはありません。酒には弱い方です。勝手に冷蔵庫から出してきて、飲んでましたが、ボクシングの試合の後は、1週間は我慢してました。頭を殴られた後に、アルコールを飲むのはちょっと危険ですから。

 

大学のこと、将来のこと

信介は、もともと数学や物理は得意な方で、理科系でしたが、私の友人が麻雀の最中に「文化系は楽だぞ、だんだん授業数が減って、大学4年になったら、週1回ゼミに行くだけで済む」などというものですから、信介も、「俺は大学で勉強はしない、文化系にする。授業出なくていい学部にする」と言う始末で、急遽文化系に変えたのです。ボクシングやりながらの受験勉強ですから、なるべく科目を減らして、狙いを、株の経験もあるし、経済学部にしました。勉強する科目は、数学と英語と社会1科目です。国立大学は前期は一橋大、後期は東大文二、私立は慶大経済と早大政経と決めました。信じられない自信家で、「東大後期は小論文だけだろ、麻布は試験が殆ど記述式で慣れてるし、俺は論文は得意だ、それに俺は試験に強いし、1年やれば絶対受かるよ。受かっちゃいそうで恐い」と言っていて、妻共々呆れ果てました。どこから、そんな自信が出てくるのか。私は、親バカで、信介の意志の強さと集中力は知ってましたので、こいつの頭なら、ひょっとして、全部合格しちゃうかなと思ってはいました。基本的には、家にも近いし、ジムにも通えるしと、慶応に行こうと決めていたようです。東大はもともと嫌いですから、あるいは受験しなかったかもしれません。無論、大学でもボクシングは続けるつもりだったようです。

将来については、「俺はサラリーマンにはならない。事業を興す」と言っておりました。プロボクサーでは世界チャンピオンにならない限り、食べていけませんので、プロテストを受けてプロにはなっても、仕事は別と言うことは分かっておりました。株で資金を作って、大学在学中に何かやってみればいいと思ってました。
「一流大学に入って一流会社に就職するか公務員になる」等という、情けないことは考えていなかったと思います。一生懸命勉強して、いい大学へ入って、サラリーマン(宮仕え)つまり人に使われる人生を目指すなどという志の低いことはプライドの高い信介は考えもしなかったでしょう。「大会社や役所に就職すれば一生安泰」など、何というつまらん、魅力のかけらもない、ちっぽけな目標でしょう。失敗して野垂れ死にしたって、たかが一生、主体性をもって、志高くチャレンジしてこそ人生でしょう。私は信介をそのように育ててきました。「自分の人生は自分のものだ。何のために生きるか、何を人生の目標に据えるか、よく考えて、一度しかないのだから、後悔しないように、好きなように生きろ」といつも信介や次男には言い聞かせておりました。

ラーメンのこと

ラーメンに凝り始めたのは、事故の3,4ヶ月前だと思います。友人には3ヶ月で70軒を制覇したと自慢していたようです。3月8日の試験が終わったら、原付バイクの免許を取り、春休みは更にラーメンを食べ歩くんだと楽しみにしておりました。バイクなんて親は反対ですが、全部自分の金でやるので、文句は言えません。今年は、年間300食が目標だったようです。インターネットのブックマークもラーメンのサイトばかりでした。ラーメンの本を数冊買い込んで、しょっちゅう読んでました。死後、机の上に自分で作ったラーメン店のランキング表がありました。ちなみに、信介の一番のお勧めラーメン店は、横浜の吉野町にある「ぺーぱん」というラーメン店だそうです。いずれ、夫婦で供養のため食べに行こうと思っております。

 

アトピーのこと

アトピー性皮膚炎は生後間もない頃からで、死ぬまで完治はしませんでした。一番ひどかったのは幼稚園から小学校低学年で、妻はよく夜中に起きて、信介を掻いてやっていました。最近は、背中に出るくらいで、殆ど、ないに等しい程度でした。ただ、毎日風呂に入り、手入れは欠かせません。ひどくなると、困るので、ちょっと悪くなると、ステロイド系軟膏で治し、治ったらその使用は止めるという繰り返しです。ここには書ききれないほど、あらゆる事をしました。一番手間がかかり、お金を使ったのはアトピーです。親子の共同の戦いです。私が信介のことをよく憶えているのは、アトピーでのスキンシップのせいかもしれません。幼稚園の頃から小6まで、毎年夏は1週間位、海に行きました。アトピーのためです。海に1週間くらい浸かると、アトピーはきれいになります。ただ、最初は大変です。傷口に塩を擦り込むようなものですから。その1週間のために1年間貯金をしました。あの事故の前日、私が風呂上がりの信介の背中を掻いてやったのです。いつもは妻か弟に頼むのですが、この時は私しかいなかったのです。私はたまにしかやってやらなかったのですが、何だか、参りました。目黒署で信介の遺体を確認するときに、顔の半分が包帯で覆われ、残りの右半分も腫れ上がっており、信介とは思えなかったので、夢中で前日に掻いてやった背中を触り、ざらざらとした肌を確認したときは、堪らなかった。それでも、首から下はきれいなままでしたので、まだ、体中を調べ、左肩の小さな黄色のあざを見つけた時の気持ちは、頭が真っ白になり、もう言葉に表せません。信介の体は、薬を塗ったり掻いてやったりしてましたので、良く知っていました。信介との最後の別れとなったのは、死の前日の深夜2時頃です。翌日の英語の試験ために勉強をしていたのでしょう、突然起こされ、教科書の何カ所かを訳させられたのです。信介はいつも私を英語の辞書がわりに使っていました。それが信介との最後になりました。

アトピーは長い戦いです。信介はイライラしたことはかなりありましたが、弱音を吐いたのは小学校3年か4年生の頃、ただの一度だけでした。「オレは一生かゆいのかな」と。私も妻もかける言葉が見つかりませんでした。幼稚園の頃、甘いもの特にチョコレートは痒みを助長するから食べない方がいいと医者に言われ、「僕はチョコレートは食べられないんだ」とみんなが食べていてもじっと我慢してたことも思い出しました。あの頃から自分で納得したことはやり通す姿勢を持っていました。
良くなったり、悪くなったりの繰り返しでした。季節の変わり目や気候によっても症状が変わりました。食事療法以外、いろんな事をしました。ニンニクの入浴剤が効果があると新聞に出たら、直ぐに試したり、自然塩を使って(浴槽に溶かして)入浴させるとか、ハワイに家族旅行に行ったときはアロエの湿潤剤(日焼け後の消炎剤)が効くと信介がいうので、安価でしたのでスーパーで買い占めてトランク一杯持ち帰ったことなどです。テレビで紹介していた海水療法は最も効果がありましたが、これも夏の海水浴の一時期だけでした。一年中、海水浴は出来ませんし。でも、真剣に伊豆の海岸近くに転居しようと検討したことはありました。海水浴に行った帰りに車で住宅地を見て回りました。美肌水も雑誌に出ていたので、大変安価に自分で作れますから、1年以上、あの事故で死ぬまで使いました。中2位まではかなり症状が出ましたが、徐々に良くなってきて、高校生になってからは、毎日入浴、その後に美肌水を噴霧したりと手入れは欠かせないものの、たまに局部的に悪化した箇所にステロイドを塗る程度でした。ステロイドは1日くらいで良くなりますから、直ぐやめます。確か、中2の頃ですが、かなり悪化した時期がありまして、その時、テレビでアルカリイオン水・酸性水による療法が紹介されましたので、直ぐにそのクリニックに行きまして、結局高価な生成装置を購入しました。今でしたら、2,3万で買えると思いますが。酸性水を風呂上がりに噴霧し、アルカリイオン水は一日に2リットルくらいは飲むという療法です。信介のリュックには常に500CCのボトルが1,2本入っていて、学校でもジムでもそれを飲んでいました。4年間くらい、死ぬまでアルカリイオン水を飲み続けました。酸性水噴霧は症状が良くなってからは面倒がってやめていました。アトピーの難しさは、症状が改善しても、何が効果があったのかわからぬ事です。療法が効いたのか、季節的なものなのか、年齢的なものなのか、皆目分かりません。しかも半年とか1年とか長期間試さないとわかりません。ただ、塩素の入った水道水よりも、アルカリイオン水の方が身体によいのは間違いないと思いましたので、私どもも信介もあの女医の言を信じて、飲み続けました。この家を建てたときも、ダニの温床となるカーペットを使わぬように殆どの部屋をフローリングにして、アルカリイオン水の装置はキッチンに組み込みました。体質改善を信じて。
磁気で水道水の粒子を微細にするなどという装置も借りて試しました。結局、効果がはっきりしない、長期間試さないと効果がわかりませんので、また高価でしたので、途中でやめました。ステロイドを使いながらの美肌水とアルカリイオン水は効果があったかなと思います。完治には体質改善しか道はないと思います。

自分の人生は、誰のものでもない自分のものです。親は普通、先に死にます。親のものではないのです。だから私は子育ては志を高く持つよう、精神的な自立を促すことを主眼にしてきました。信介は何事にも言い訳をしない、弱音を吐かぬ奴でした。幼い頃から泣き言を言われ甘えられたことは殆ど記憶にありません。そういう意味では可哀想なことをしました。死ぬ迄アトピーに苦しんだんですが、幼稚園の頃から、友達にも、弱音を吐かないから、アトピーだったことを小中高と通して殆どの友達が知りませんでした。小学校のサッカー友達も誰一人、同級生や担任の先生ですら、勉強が出来ることは知っていても、関東一円で50番にはいるような信介の抜群の成績を知らなかったくらい、勉強をしていることなどおくびにも出さない、そういう自慢もしない奴でした。勉強のことは自慢しなくても、足が速いとかサッカーが上手いとかそういうことは自慢しまくっていたようです。小遣い無しで1年半通したことも麻布の友人は誰一人知りませんでした。いつも部活で一緒だったのに、あいつはそういうことは決して口にしなかったのです。ボクシングの試合で右肩を脱臼しても、ひどく痛いはずなのに、左手一本で戦うと言って、トレーナーを困らせた程、負けず嫌いの、気の強い奴でした。あいつのガッツは本物でした。その根性とたゆまぬ努力を皆さんが認めてくれたのだと思っています。私はその方々に、何とかして、残りの人生を通して、御礼をしたいと思っております。あいつへの礼儀だと思っています。

 

ランのこと

ランは我が家の愛犬でシーズーの雌です。信介が小6の時に、小4の弟のために、犬を飼うことにしのです。当時、妻も私の会社を手伝っており、弟は鍵っ子になっていて、帰宅しても誰もいません。それで、犬がいれば、寂しくないだろうと言うことになったのです。二人ともアトピーですから、動物を飼うのは迷ったんですが、思い切って、飼うことにしたのです。ただ、信介は「動物を飼うなんて、人間の傲慢だよ。動物に対する冒涜だ」と大反対で、正論ですが、随分生意気なことを言うものです。信介が修学旅行か何かでいない時にランが届き、信介は帰宅したらランがいた訳なので、「何で俺が反対してるのに飼うんだ」と怒ったのですが、「傲慢かもしれないが、でも、誰かに飼われちゃうんだよ。うちで飼った方が幸せかもしれないよ」との私の説得と、生後1ヶ月半の本当にかわいいランを見たら、もうそれ以上は何も言わなくなりました。それからは、死ぬまで5年半、「ラン君、ラン君」とよく可愛がりました。どういう訳か、雌なのに、ランちゃんとは呼ばず、信介はいつも「ラン君」でした。ランを呼ぶときには、声が2オクターブくらい上がります。友人が来ても、いかついボクサーのくせして、相好を崩してとんでもない高い声で「ランくーん」と言うものですから、友人も呆れ返って、からかっていたようです。朝、家を出る時も、「ランくーん、行って来るね。お見送りは。」帰ってくると、「ランくーん、帰ったよ。ランは可愛いね」と挨拶するのが常でした。親には全然挨拶しないくせにです。あの声を思い出すと、胸が締め付けられるような思いがします。
こんな事もありました。私がランを散歩に連れていくときに、散歩のコースはあまり車は通らないので、紐を離してやることが多いのです。それを聞いて、信介が烈火の如く怒り、私に向かって「ふざけんじゃねーよ。車に轢かれたらどうすんだよ」と言ったことがあります。普段は大してランの面倒を見るわけでもないくせに、ずいぶんと態度がでかいなと「むっ」としましたが、まあ正論なので、それからは必ず紐につないで散歩に行くようにしています。信介のランに対する愛情を実感した事件でした。