遺稿集

ここに掲載する信介の遺稿は高校2年の「倫理」の授業でレポートとして提出したものです。本人もまさかこのような形で公表されるとは思いもよらなかったと存じます。稚拙ではありますが、信介自身の考え方が率直に表現されていると思い、信介の内面を知る一端ともなると考え、掲載することに致しました。信介が書き遺した唯一とも言える原稿です。

 

カミュ「異邦人」

「異邦人」とはその名の通り普通の人間とは違った人間のことを指している。主人公ムルソーは母親が死んでも涙を流さなかった。これは特別悲しいというわけでもなく、特別な感情がなかったからだろう。ここで普通の人間はたとえ悲しくなくても、嘘をついて涙を流す。ムルソーはその心の純粋さ、素直さゆえに泣かなかったのだ。つまり、彼はどちらかというと理想的というよりは感覚的な(もちろん理屈的な一面も持っているのだが)人間である。またムルソーは友人の女関係で殺人を犯してしまう。特別に殺したいわけでもなく、理由を彼は後に「太陽のせい」と言う。僕が思う彼の動機は彼は常日頃から多少物事を悲観的に見るのだが(後に変わる)、この時自然(太陽)の大きさを感じ、自分の小ささを認識し、何か得体の知れない気持ちになり、現実逃避的行動として殺人を行ったのではないだろうか。物語の最後に、死刑が決まると彼は段々幸福感に包まれてきた。これは彼が悟りのような境地を開き、「無」から「有」を作り、何かある種の満足感が得られたのだと思う。また、彼は自分の処刑に多勢の人が来ることを孤独感を紛らわすために望んだ。ここからも分かるように彼はさびしがり屋である。彼は人間はしょせん一人であり、孤独であることを認識している。この小説のテーマは不条理だが、孤独を中心に筋道が通っている気がした。カミュは自分の一部分と理想像を合わせてムルソーをつくったのだと思う。

 

 

サルトル「実存主義」

サルトルは実存主義に対する非難について擁護を試みている。まず最初から言い得ることは「われわれが意味する実存主義とは、人間生活を万能にする教えであり、また一面、あらゆる真理、あらゆる行動は、人間的環境と人間的主体性をうちにふくむと宣言する教えだということである」と言っている。実存主義者に共通する考えは「実存は本質に先立つ」ということであり、あるいは「主体性から出発せねばならない」と言い換えられる。この事はどう理解すべきであろうか。例えば何か造られた一つの物体を考えてみると、「本質」は「実存」に先立つと言える。すなわち、これは技術的世界観であり、この世界観では生産が実存に先立つと言える。しかし、彼が言うには、実存が本質に先立つところの存在、何らかの概念によって定義され得る以前に実存している存在が少なくとも一つだけあり、それは人間であると言っている。つまり、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿を現し、その後で定義されるものであり、最初は何ものでもないことを意味する。人間は自らつくるところのもの以外の何ものでもない。これがいわゆる主体性である。しかし、それが意味するのは人間は石ころなどの何かの「もの」よりも尊厳であるということである。すなわち、主体的に自らを生きる投企であり、人間は何よりも先に自らかくあろうと投企したところのものになるのである。自らかくあろうと意志したもの、ではない。

実存主義者が言う「意志」とは意識的な決定であり、これは自ら作ったものの後に来るからである。しかし、もし果たして実存が本質に先立つものならば人間は自らあるところのもの、自らの実存に対し全責任を持つ。それは厳密に自分自身に責任を持つのではなく、全人類に対し責任を持つという意味である。我々が人間は自らを選択するというとき意味するのは各人がそれぞれ自分自身を選択するということであるが、しかしまた、各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択するということをも意味している。つまり、我々の責任は我々が想像し得るよりも遙かに大きい。よって、自らが起こす行動は自分自身に対し、そして友人に対して責任を負い、自分の選ぶある人間像を作り上げる。自分を選ぶことによって、自分は人間を選ぶということである。このことは不安、孤独、絶望などの言葉が何を表しているかを理解させてくれる。実存主義での不安とは自分自身と同時に全人類をも選ぶということは全面的な、かつ深刻な責任感を逃れられないということである。つまり、不安は我々を行動から隔てるカーテンではなく行動そのものの一部なのである。

孤独とは人間は自分の為すこと一切について責任があることで、人間は何のよりどころもなく何の助けもなく刻々に人間を作りだすという刑罰に処せられているということで、自分自身で我々の存在を選ぶと言うことを含んでいる孤独は不安にあいともなう。絶望とは我々は自分の意志に左右されるもの、我々の行動を可能にするいくつかの蓋然性の全体だけを問題にするという意味である。また、出発点において「われ考える、故にわれあり」という真理以外の真理はありえない。これこそ自分自身をとらえる意識の絶対的真理である。しかし、これは我々はコギトの中に他者を発見するということを証明した。他者がいて初めて自分が存在する。他者があるところの自分である。

 

シュバイツアー

彼は「自分は生きようとする生命にとりかこまれた生きようとする生命である」という事実から出発している。その根拠の部分「生きようとする意志」を促進させるものが快楽、善になり、阻害するものが苦痛、悪になると言っている。しかし人間は生命を破壊し損傷する必然性が課せられている。これを彼は意志の自己分裂と呼んだが、人間は自己の責任でない生の破壊、損傷においても見える限りは責任を持ち阻止すべきだと言う。しかし、それは現実的な問題としてなかなか出来るものでもなく、またそういう問題として捉えなくても、どこに必然性の線引きをするか、それを自分自身で決断することに倫理があるというが、それは広い視野で見て抽象的な気がする。また第一に自分の生を促進させる行為を善とし、しかもそれが他の生の破壊であったら悪とする。この場合、彼の主張に何か矛盾点が見えて違和感を感じる。彼の思想は自分の内面を見つめ、本能的に感じる生の偉大さから生まれる生への畏敬から始まった。そこから更に掘り下げ自分自身に対する真実の要求から生じたのが生への献身である。あくまでも自分自身の真実、生を考え、その余剰分がごく自然に他者へ流れ出るというのが僕のイメージで、つまり他者=自分であり、自分への献身でもあるのだと僕は考える。

 

茶の本

茶は日常生活の俗事の中に美を崇拝する一種の審美的宗教すなわち茶道の域に達した。茶道の要義は不完全なものを崇拝し、いわゆる人生という不可解なもののうちに何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるというのは、これは道具を使った倫理である。茶のいろいろな味わい方はその当時の時代精神を表している。それは茶に時代が表れるように人間にも言えて、人生は内心の表現であり、知らず知らずの行動は我々の内心の絶えざる発露である。茶や美術、芸術などの価値はそれは人により異なり、自分に語る程度によるものであることである。現代の美術に対し表面的に熱狂している人々は作品の良否よりも美術家の名が重要であるらしい。やはり、人間は自己を持ち、周囲に流されないで主体性を持って生きるべきだと思う。

 

般若心経

「般若心経」に書いてあることは難しくてよく分からないのだが、結論は無の境地に達する知恵を完成させることにより何かが見えてくる。この何かっていうのは長い年月をかけたりして見つけるのだろうけれども、感覚的には分かる気がする。今の僕は人間としても歴史も浅く、物事をよく知らないけれども、そういう「さとり」みたいなものは僕の感覚では無の中の無みたいな、うまく言い表せないけれども、それは般若心経の「この世に存在するありとあらゆるものは実体のない...」に通じるものなのかもしれない。実体がないという表現は何か曖昧で意味が分からないけれど、この文章を読んで何となく言いたいことを肌で感じた。

 

フロイト

最も印象に残っているのは、フロイトの自我の構造である。それは他の思想は身近な題材じゃなかったが、自我の構造は身近だったからだ。例えば、性的欲動が3〜4才の頃に一度来ることや、3〜4才の男の子が父親に去勢されるかもしれないという恐怖を抱いているという点で、ショックだったからである。授業の印象は、別に良いと思うが、何か思想を学んでも、良く分からないし、当たり前のことを言っていたりするので、もっと興味がわく身近な題材を取り入れた方が良いと思う。

 

無題

ソクラテスの「魂」は自分が無知であることを認識して初めて知であるといった。つまり、「無」からの「有」である。プラトンの考えでは、この世界では地位が決められていて、植物、動物、人間と上に上がっていき、一番上は神である。つまり、現実が理想であるといった。アリストテレスは理想は高いところにはないといった。全体を貫いて共通する考えはソクラテス、プラトン、アリストテレスとも「理想」は高い所にあるのではなくて、自分の中にある、認識されたものだということである。